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2016.05.28 SAT - 読書ブログ

実家の断捨離で毒親とのしがらみも捨て去る『実家の断捨離 片付けのカギは「親離れ」』やましたひでこ著を読んで

記事を読んでいただきありがとうございます。一月万冊の大下周平です。今回取り上げるのは『実家の断捨離 片付けのカギは「親離れ」』本です。ものをため込んでしまう親が住む実家を、子供が断捨離を実行してきれいにするというときに、単に物を捨てる捨てないだけでは収まりきらない問題が発生します。それが親子関係によるしがらみなのです。

915053B3-C5D7-49CB-AB43-BEEC81B6BF43断捨離と親子関係

著者は、子供のころから母との相性が良いとは言えない状態で幼少期から大学生までを実家で過ごし、大学卒業後にはやばやと結婚してようやく実家を出ることに成功しました。母親はもともと片付けや掃除といったことが嫌いな性分で、家の中は散らかっているのが日常でした。その状態を子供心に恥ずかしいと思っていた著書はやっと実家を脱出できたと思ったら、逆に実家を片付けたいという欲望が高まり、里帰りのたびに片づけをするようになりました。そしてついには一人暮らしが難しくなった母親と同居をすることになり、そこでも実家から引っ越し先の自宅へ荷物を運ぶ際に断捨離による親子のバトルが勃発しました。さらに同居が始まっても母親の部屋を見るといらないものが堆積しているので、断捨離したくなり、そのたびに喧嘩が起こっているという状態でした。

私の場合、捨てたり片づけたりするのが苦手という意味では著者と逆の立場で、私の母親が積極的に私の部屋の片づけをしていました。私自身が足の踏み場もないと呼ばれるような部屋の中で、ゲームをしたり漫画を読んだりして過ごしていました。そのうち部屋の状態に我慢できなくなった母親が掃除をするように私に言うのですが、それも無視していると最終的に勝手に部屋に入って母親が掃除をしてしまうということが続いていました。私からすると勝手に部屋に入られるということでプライバシーもなにもない上に、子供がしないからと言ってなんでも代わりにしてしまう母親は過干渉であったと思います。ご飯をよそうのも魚の骨を取るのもパンにジャムを塗るのも全部母親がやっていました。ご飯をお替りしたいときはおかわりとさえ言わず、茶碗を差し出すだけでよそって戻してくれるぐらい、なんでもかんでもやってしまう母親でした。

当時の私からするとそういったことは愛情表現というか頑張っている母親というだけで特におかしいわけでもなく、むしろ普通なんじゃないかと思っていました。ところがそれが毒親関連の本を読むようになって毒親問題について取り組むようになったときに、過干渉であるということを知り、今まで普通だと思っていたことが全部ではないにせよ異常な部分を持っていたのだと認識できるようになりました。

image親へのわだかまり

本書の冒頭にとてもしっくりくる文章があったので、そちらを引用したいと思います。

「親にわだかまりのない子なんていない」
そうだと思う。
私はこの言葉を聞いたとき、とてもほっとしたのを今でも覚えている。おそらく、このどうにも処理しがたい親への不全感はけっして私だけのものではなく、誰もが持っていることを認めることができたからに違いない。
そうか、子は誰しも親へのわだかまりを持っている。それは幼いころや子ども時代の親の対応に根差しているのかもしれない。あるいは、思春期のぶつかりあいでの禍根かもしれない。それとも、就職や結婚という自らの人生を選択しようとしたときの親からの介入、それへの憤りの結果なのかもしれない。
いずれにしろ、私たちは、どんなに年齢を重ねても、この「わだかまり」が残っているよう。意識している、していないにかかわらず。大きなわだかまりなのか、しつこく棲みついている小さなものかは別として。
ところが、だ。また一方で、子である私たちは、親をかけがえのない存在だと思っているふしがある。社会通念上、そう思い込みたいのか、そう思い込まされてきたのかはともかくとして。だから、親へのわだかまりは、かけがえのない親の存在という情に幾重にもくるまれて、自分ではなかなか気がつきにくいものとなる。

私自身普通の家庭で愛情をかけて育ててもらったし、虐待なんかも受けていないと思い込んでいました。ところが毒親問題に取り組み、毒親関連の本を読むようになってからというもの、それが単なる思い込みにすぎないことなのだと理解できるようになりました。考えてみれば、お風呂に入らないと廊下の壁をたたいて二階にいる私と姉に対して父親が怒り、それでもなお入らないでいると部屋に乗り込んできていきなり蹴りつけて早くお風呂にはいれと怒られたことがよくありました。大学生以降少なくなっていったように思いますが、それでもお風呂に入らないからと言って蹴りつけるのが虐待ではないというのは、子供心にそう思い込みたかっただけなのだと、今では冷静に分析できます。短期で機嫌を損ねると手を出す父親と、寝ている大学生の息子の布団に入って起こそうとする過干渉な母親に育てられた我が家が普通の家庭であるわけがありません。罵詈雑言を浴びせられることはないものの、毒親としての機能を十分に果たしている家庭であったのは間違いないでしょう。

こういった本来異常とも思える状態にいつまでたっても気づくことができないのは、引用文章にある通り、かけがえのない親の存在という情に幾重にもくるまれているからでしょう。親が悪いなんて思うことは、毒親問題に取り組むまで一切出てこない発想でした。それだけ問題自体を認識することが難しいですし、問題が見えたとしてその解決も容易ではありません。

image親とのしがらみを断捨離する

実家のものを捨てるということが本書の主軸になっていますが、物を捨てるうんぬん関係なく、子供のうちに親子関係をきちんと清算しておかなければ、ずっと親のしがらみから逃れることはできません。それは独立して結婚しても続きます。このしがらみ自体、親の親、親の親の親という何十年、何百年、下手したら何千年という歴史の中で発生し続けている問題です。一朝一夕で解決するのは到底不可能なくらい、とてつもない問題です。ちょっと親との意識を変えればいいという簡単な話ではありません。ひとつひとつ向き合い、吟味していく必要があります。

私自身子供のころにお小遣いとは別にお金をもらう機会がありました。それはテストでいい点数を取ったときや、何かの賞をもらったとき、家事の手伝いをしたとき、スポーツで何かしらの成果を出したときなどです。いい点数を取れば、親は喜ぶし、お金はもらえるし、褒められるので、それはもう頑張りました。親からすると子供のやる気を鼓舞するためだったというのかもしれませんが、その結果どうなったかというと、お金がもらえる相手なのか、お金がもらえない相手なのかで態度が変わる大人になってしまいました。行動の一つ一つや他人との付き合いにおいてすべてはお金を生む、もしくはもらえるか否かで無意識で対応が変わってしまうのです。

Love or money仕事を例に出すと、お金を支払ってくれる可能性のある顧客や潜在顧客からは評判が良いものの、逆にお金を支払う側になる外注先からの評判が悪かったりします。それはお金をくれるか否かだけではなく、家にいるときに何もしなくてもご飯が出たり掃除がされているような、王様状態という部分も影響しているのではないかと思います。そのほか、お金を払うときは基本的に偉そうな対応になったりすることも、お金によって態度が左右されていると言えるでしょう。

お金の有無で対応が変わるなんて嫌な奴に違いないです。頭では変えようと思っていても、それが20年以上しみついてしまっているので、なかなか簡単には変えられていません。お金で対応を変えてしまう以外にも、基本的にすべて家の中の掃除は母親と一部父親がしていたので、自分の部屋でさえ清潔に保つということよりも、誰かがやってくれるという無意識により、積極的に掃除をしようとはしません。何かをこぼしたというところまでいけば、さすがに掃除をしますが、毎日の掃除を積極的に行い、清潔感を保つというよりは、自分自身が嫌ではない許容範囲内であれば、何も気になりません。きれい好きな友達が私の家に遊びに来たときは、その友達からすると汚すぎて勝手に掃除を始めてしまったこともありますし、友達の家に遊びに行ったときは、たいていが私の部屋より綺麗でした。そして彼らは自分で掃除をしているし、親に入られたくもないし、親も入らないと言っていました。そんな話を聞いて私は異常性に気づくというわけもなく、「自分で掃除するなんて偉いな。でも掃除してくれる方が楽だよな。」程度にしか考えていませんでした。

boyまた持ち物についても、子どものころ特別に高い服とか品物を買っていたわけではないこともあってか、使い続けて壊れたり破れたりしたら捨てて、新しいのを買っていました。そして破ったり、壊れたりするまで使い込んだことを、親は褒めていました。物を大切にして長く使うという発想ではなく、使い続けてダメになったら新しいのを買うことこそ、物を使い切った感じも出てよいという評価でした。社会に出てブランド物の商品を買ったとしても、その教育のたまものでずっと同じ物を使い続け、手入れも大してすることなく、あっという間に壊れたり破いてしまいました。安い商品でも高い商品でも、手入れをしたら10年単位で使えるから大切に扱うという発想がなく、つぶれるまで使うということをしてしまうのです。たとえ手入れすれば長持ちするよとか、必ず毎日5分間で済むから手入れをしようと言われても、ついついさぼってつぶしてしまいます。逆に、きちんと自分で買ってしっかり手入れをして同じ品物を10年近く使い続けている友人もいるというのに、今手元にあるのはここ1年以内に買ったものばかりです。

他にも家にいるころは何でもやってもらえる王様状態だったので、誰か周りにいる人に対して気遣いをすることはとても苦手でした。むしろなにかしてくれることが当たり前で、自分が誰かに何か手伝ったり役に立つことをして助けるなんていう行動は、思い立ったとしてもなかなか行動に移せませんでした。その結果、仕事や恋人関係にまでそういったことがおよび、今とても苦労しています。相手が気遣ってくれるのが当然というところから、相手の気持ちにたって喜ばれるような行動するというところに変えるというのは、ずっとこれまで染みついていることだけにいつそんな風になれるのか、皆目見当がつかないくらい大変です。

3616180E-C956-4535-8017-535ACD9573A0そういった家庭の教育における影響から抜け出して、今変えようとしていることは多数ありますが、親とのしがらみを断ち切るのと同様、一朝一夕では片付かない問題です。だからこそ、腰を据えて様々な角度からそういった意識を変える取り組みをしています。なんでもかんでもお金に換えてしまうという教育ははっきりいって親のせいでしょう。自分がおかしいのではなく、親の教育のせいでおかしくなってしまった。でも自分の人生だからこそそれを何とかするのは自分でするしかありません。親に文句を言っても自分の性格が治るわけではありません。ですが、これは親に端を発する問題、これは自分に端を発する問題、これは地域社会に端を発する問題といった形で、様々な視点から切り分けて考えること、そして心からそういった問題は親のせいですと言えることが大切です。

人生において何か息苦しさを感じている場合、一度親との関係性を疑ってみてもいいかもしれません。自分の認識や行動パターンがどこで形成されているのか、それは親といた時と同じことをしているのではないかと考えてみると、案外該当することが出てくると思います。私もいろんな本を読んでいるうちに、過去の記憶とつながる部分が増えてきて、あれは毒親的な対応だったし、そのせいで今苦しくなっているのではないかと思えるようになってきました。それだけ冷静に切り分けて考えられるように少しずつ変わってきたのです。

毒親とのしがらみを捨て去り、新しく適切な距離感で親と関係を構築できればそれはきっと過ごしやすい日々が始まると思います。親は親の人生があり、子どもは子どもの人生があります。適切な距離感の中で理解と受容ができたとき、子どもたちは親から離れて自分の人生を歩んでいけるようになります。道のりは平たんではないですが、その道のりに進んでいればきっと解決できますし、自分の人生がもう始まっているといっても過言ではないです。私も普通の家庭で育ったと思い込んでいた人の一例として、本を取り上げ毒親問題について多くの人に情報を発信していきたいと思います。
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大下 周平

一月万冊の清水と大学時代からの友人。ゲームが好き。清水にはじめて『こいつには絶対格ゲーで勝てない・・・!』と悔しがらせた男。彼と代表が対戦して勝てる可能性は5%以下。月に100〜300冊ほど読書をし、清水の会社で執行役員としても活躍!

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