2016.05.28 SAT - 読書ブログ
自分の親も毒親かと考えてみる『母と娘の「しんどい関係」を見直す本』石原加受子著を読んで
普通の家庭でも起こり得る毒親問題
記事を読んでいただきありがとうございます。一月万冊の大下周平です。今回取り上げるのは『母と娘の「しんどい関係」を見直す本』です。私自身は娘ではなく、息子という立場ではありますが、それでも読んでいくうちにこんなことあった、そうだな、その通りだなと思い当たることがいくつもありました。親との関係性においてこの本で最もしっくりきた部分は次の文章です。
「そんなトラウマになるような出来事はありません 。ひどい仕打ちをされたこともないし 、虐待を受けたこともありません 。私の家庭環境は、いたって普通です 。むしろ 、私はかわいがられたほうだと思います 」と答えます 。確かにそうなのです 。一般家庭での出来事は、トラウマとして残ってしまうような深い痛手を負うよりは 、前述のような 、日々の 〝小さなこと 〟の積み重ねです 。 「背中に抱きついて、母親に拒否された 」という経験は 、子どもにとっては後々まで心の痛みとして記憶されるかもしれません 。けれども親にしてみれば「たまたま忙しくて 、子どもに構ってあげることができなかった 」程度の認識でしかないことも多いでしょう。場合によっては「そんなことがあったの ? 」と覚えていないほど 、大きな問題となり得ていないケ ースがほとんどなのです 。
私自身普通の家庭で育ち、お前なんか生まなければよかった、顔を見ているだけ腹がたつ、お母さんの言っている通りにしていればいいのよ、などといった酷い言葉を投げかけられた覚えはありません。覚えているのは「大好き」「とても大切にしている」といった言われて嬉しい言葉です。もしかすると嫌な記憶を封じ込めて忘れてしまっているのかもしれませんが、ふとした瞬間に思い出すこともないので、引用した文章のように普通の家庭で可愛がって育てられたのだと思います。とはいえ、何かおかしいと感じる部分が何冊もいろんな本を読むことで思い当たるようになってきました。引用した箇所にある通り、些細なことで拒絶されたり、冗談として親は言ったのかもしれませんが、今でも自分の中でしっかりと覚えているのは言葉があったります。例えば、「お前は橋の下で拾ってきたんだよ。だから一人だけ血液型が違うんだよ。」と言われました。私の家族の血液型は、父と父方の祖母がB型で、母親と姉がA型で、私はO型です。勉強した結果から考えればむしろ両親の血液型を特定できたなと思いますが、当時はそれが恐ろしいことに思えてなりませんでした。すぐ冗談よと言われてはいたものの、実際に血液型が違うので本当はどうなんだろうと子供心に不安になっていました。そしてこれも本の通りですが、親はそんなことを言ったかどうか覚えていませんでした。
その他にも大学生になったころ、私が朝部屋で寝ていると、母親がなんの断りもなく入ってきた上に布団に潜り込んで起こそうとすることが何度もありました。小学生の頃なら喜んだかもしれません。保育園より下の年齢であれば間違いなく嬉しかったでしょう。すでに20歳を超えた大学生相手にそれをしているというのは、かなり異常な世界といえると思います。そして私のいない間に勝手に部屋を掃除してしまいます。自分の部屋なのにどこに何を片付けたのか、母親に確認しないといけないような、そんな過干渉な家庭でした。
親からするとちょっとした冗談を言ったり、愛情表現をしたという、日常の一コマにすぎないのかもしれませんが、私にとってはそれはとてつもない不安を引き起こすぐらいの大きな一言であったり、やめてくれって思ってしまうような出来事だったのです。今では普通に笑い話にできますが、逆にそれを今でも覚えているということはそれだけインパクトのある出来事だったと思います。本当になんでもないのなら今でも覚えているわけがありません。どれだけ大切にされて育ってきたのか、親からすると胸を張って大切にしてきたと言えるのかもしれませんが、私自身からするとそんな怖い思いをさせられた、嫌な思いをさせられたとも言えるわけです。
親の何気ない一言でも拒絶は子供の心に傷を残す
さらに引用した文章の続きでは、
たとえば前述の、母親に甘えたい気持ちを満たそうと、「子供が自分から働きかけて、拒否された」という出来事は、ここに限らず、他のさまざまな場面で起こっている可能性があります。
他の場面では、子供が母親に「ねえ、この絵本、一緒に読みたい」と頼んでみて、「いま、忙しいから、後にして」とピシャリと断られているかもしれません。
「後にして」という言葉を信じて待ちつづけたのに、その「後にして」がいつになっても実現しなければ、子供は次第に親の言葉を信じなくなっていくでしょう。
あるいは、そんな経験が度重なると、子どもは「母親が忙しそうにしているときは自分から話しかけてはいけない」と思うようになるかもしれません。さらに、話しかけることそのものに、罪悪感を覚えるようになるかもしれません。
そして遂には、
「自分は、親に愛される資格のない人間だ」
と思い込むようになるかもしれません。
本の引用部分のように繰り返し拒絶されるというよりもたった一度の拒絶の恐怖から、二度目以降が発生しなかったために、親に愛される資格のない人間だと思わなくて済んだのかもしれませんが、それは逆に親に愛される資格のある人間だと肯定できているわけでもありません。要するに拒絶が怖いから愛されているのかどうか、確認をしないで、愛されているっぽいというところで安心し、それ以上追及をしない臆病な子供であったのだと、改めて回想するとそう考えられます。
大人になって振り返ってみると、父親は母親からすぐに手をあげるから子育てに関与するなと叱ったという話を聞いていたことからしても、子供の気持ちも理解しつつ、自分の事情や感情優先で対応しないということができない人でした。だから仕事から帰って家でゆっくりしようとしているときに遊んでくれと言われたりすると、それは面倒なことですし、対応もおろそかになりがちです。その出来事がどれぐらいのインパクトがあるのか、きっと想像もできないでしょうし、言ったことさえ記憶にないと思います。
自分中心で考える
これまで私の経験も含めて書いてきましたが、私がこの本で最も心に刺さったことは、「他者中心」ではなく「自分中心」に生きなさいということです。ここでいう「他者中心」とは、相手の顔色を窺ったり、相手の態度や反応によって自分の言動を決めたりする生き方のことを指します。親に否定されては子供は生きていけない。だからこそ否定されてしまった子供は処世術として親の顔色を見つつ、機嫌がいいのか悪いのかを敏感に察知して、見捨てられないように生きていくことになります。こういった生き方は、自分の気持ちや感情よりも絶対的な存在である親の状況を最優先とします。それは自分自身の欲求や希望にすら気づかず、本音にふたをして生きていくことになります。当然、自分を大切にできないですし、苦しい人生がただただ続いていくだけの、つらい日々を過ごしていくことしかできません。
逆に自分中心の生き方とはどういうものなのか。そこについては私自身がとても重要で大切な部分だと思ったので、ちょっと長くなりますが本文から引用します。
自分中心の生き方は、他者よりも、まず自分の気持ちや感情を大事にします。
こんなふうに書くと、わがままで身勝手という”自己中心的”なイメージを持つ人もいるでしょう。けれども実はその反対で、他者のことを思いやれない人、自分の主張を一方的に通そうとする人、そして争ってでも自分の我を通そうとする人たちこそ、自分を大事にできない「他者中心」の生き方をしてきた人たちです。
幼いころに自分の意志や感情が尊重されず、否定されたり、拒否されたり、自分の欲求や望みを受け入れてもらえず、あきらめざるを得なかった体験をたくさん経ているために、人にやさしくすることができなくなっているのです。
人と争ったり、人から奪ったりしないと自分の望みはかなえられないと考える「他者中心」の人とは反対に、「自分中心」の人は、人のものを奪い合ったりしなくても、自分が自分のために得ることができると知っています。
実際のところ、相手と争わなくても、自分の主張を押し付けなくても、人は自分の気持ちや意思を大事にすることができるのです。
相手に否定され、拒否されたとしても、「自分中心」の人は、相手の言動よりも、自分を信じたいと思うでしょうし、そう行動するでしょう。これまでの生育環境で、自分を大事にする方法を身につけているため、他人ではなく、自分のために行動することを心から認めています。また、家庭で大事にされているからこそ、他者を大事にすることもできるのです。
だからこそ、この本は多くの人に読んでほしいと思います。何かうまくいかないことや、ちょっと心がもやもやするとか、何かしら気持ちに不安定な部分があるのであれば、一度過去を立ち返ってみることも含めて読んでみてほしいです。過去に縛られる必要もありませんが、過去の何かが原因としてあるならば、それを認識するかしないかは問題を解決していくうえで大きく結果に影響する部分だと思います。
親との付き合い方は
最終的に親との関係性においては、本書にもある通りわかりあおうというのではなく、お互い一人の大人、普通の人間として認め合おうということが基本となっています。親から物理的に離れてしまうと、それがよりやりやすくなるかもしれません。私もずっと実家で過ごしていたら、こんな問題に向き合うこともなく、ずっと子供のままでいられたでしょうし、親子関係においてもそれが普通だったでしょう。その結果、「他者中心」の生き方により多くの人に迷惑をかけながら生きていったし、それが継続していたと思います。
親子は血縁があるとはいえ完全に別人格ですし、完全に分かり合うなんてことは不可能です。同じ場所にいても見ている世界は違います。
その不可能であるということを認識したうえで、互いのことを認めることから始めていくのがよいと思います。親の言うことに反応するのではなく、考えたうえで相手のことを認め、一呼吸おいてから自分の言葉で返すことが、お互いを認め合い適切な距離感を保った状態で関係を構築することができる手段となります。
本書においては「心の自由」を認め合う関係が理想としています。私もそう思います。ただそこまでいけなくても、自分の心の自由を自分で認めて、不可侵領域として構築することが、毒親問題解決のきっかけになると思います。自分の人生も自分の心も、間違いなく自分だけのものですし、他人に左右されていいはずがありません。自分を大切にすることが、他人を大切にすることにもつながりますので、まずは自分の領域をしっかりと確保して、さらに親もそこを尊重してお互いに入ってこないという関係ができたら、それは素晴らしいことだと思います。世界中の人々がそういった関係を構築できたらどんなに素晴らしいことかと思います。そのきっかけ作りとしてもぜひ本書を手に取ってみてはいかがでしょうか。
大下 周平
一月万冊の清水と大学時代からの友人。ゲームが好き。清水にはじめて『こいつには絶対格ゲーで勝てない・・・!』と悔しがらせた男。彼と代表が対戦して勝てる可能性は5%以下。月に100〜300冊ほど読書をし、清水の会社で執行役員としても活躍!
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