2016.05.21 SAT - 速読多読コーチング
アファメーションに御利益を求める人にコーチングは効かない
『あなたは何教ですか?』の質問に答えられない人はアファメーションが効かない、そりゃそうだ、と答えられる人はどれくらいいるでしょうか。
次に、コーチングに救い、御利益を求めてしまう人もコーチングは効きません。そりゃそうだ、と答えられる人はどれくらいいるでしょうか。
苫米地さん自身がブログに
皆さんが、キリスト教、イスラム教、仏教などのどれを選択することも自由ですし、どれも選ばないことも自由です。ただ、選択するからには、徹底的に、それぞれの始祖の主張まで立ち返って思索し、吟味するべきものであり、特定の指導者の発言や、「神秘体験」などの個人的な体験に依拠するべきではないというのが、私の常々の主張です。
イエス・キリストを理解してない人たちへ、−(仏陀を理解していない人たちも)より
http://www.tomabechi.jp/archives/50316486.html
と書いてくれています。しかも無料です(笑)
これはコーチングを信じ、実践しようとする人々に
皆さんが、コーチングを選択することも自由ですし、選ばないことも自由です。ただ、選択するからには、徹底的に、それぞれの始祖(ルータイス)の主張まで立ち返って思索し、吟味するべきです。特定の指導者(苫米地さん)の発言や、「神秘体験」などの個人的な体験(出版社の宣伝するコーチングで成功した!という体験談など)に依拠するべきではないというのが、私の常々の主張です。
と言い換えて伝えられませんか。というわけでルータイスや苫米地さんの著書を徹底的に吟味してみました。
下記の
コーチングで目標達成するために最低限読むべき本と読書姿勢についてと合わせて7〜8万文字あるので興味がある人はどうぞ。
まず、コーチングの最大の肝はゴール設定です。はじめにゴールありきなのです。そして、そのゴールは『自由意志に基づき主体的に選択されたものであり、現状を超えている必要がある』と定義されています。
自由意志で主体的に選ぶためには何が必要でしょうか。苫米地さんは人工知能を研究する過程で『1.ランダム性 2.他のものよりも一つ上の抽象度での判断が出来る』この二つを満たせて自由意思だと説明しています。
と言う事は、まず、自分自身がどのような考えに影響を受けているのか、それを知る必要があります。そうでなければ自分以外の存在に知らない間に作為的に操作されていますし、その時点で一つ上の抽象度で判断できません。
キリスト教徒が自分にキリスト教の影響があるということすら自覚せず、どのようなゴールを掲げたとしてもそれは知らない間にキリスト教に影響を受けてしまっているので自由意思を持って主体的に現状を超えたゴールを設定したとは言えません。
『あなたは何教ですか?』の質問に答えられない人は無意識レベルで自分を縛っているものに気づいていないのです。敬虔なキリスト教徒であればあるほど、自覚的に自分はキリスト教を実践している、とセルフトークに上がっています。
自分自身がキリスト教を信じているからこそ、自分はプロテスタント、自分はカトリック、だと細かく自覚しています。その自覚があるからこそ、イスラム教との違い、仏教との違いも明確に分かります。『あなたは何教ですか?』と言われてなんとなく仏教・・・と答える日本人は多いですが、それは日蓮宗、浄土真宗、密教、浄土宗、曹洞宗・・・などなど沢山ある中でこれだ!と言えますか。言えないならそれは仏教ではありません。
なんだかよくわからないけど、多分・・・仏教っぽい日本文化のようなものに影響されている、程度の自覚しかないのであれば
『1.ランダム性 2.他のものよりも一つ上の抽象度での判断が出来る』
の条件を満たしていないので、必然的にコーチングの大前提となるゴールは『自由意志に基づき主体的に選択されたものであり、現状を超えている必要がある』が満たせてません。そうなるとどれだけゴール設定をしても、アファメーションをしても現状にどんどん自分を縛るばかりでエネルギーも出なければ問題も解決しないでしょう。
コーチングの開祖であるルータイスは敬虔なクリスチャンでしたし、海外に行く機会も多く、多くの異文化に触れて
『自分はこういう思想、文化に影響を受けている』
という機会が多かったでしょう。苫米地さんにしても実家は武家で儒教的な色合いの強い家で育ったにもかかわらず、大学は上智大学でキリスト教の教育を受けています。
子供の頃から海外に行く機会も多く、その上、海外留学もしました。10〜20代の頃に様々な文化に触れて思考し自らはこういうモノに縛られている、影響を受けている、という自覚をしていたはずです。
私自身も海外留学をしていました。それも中学の3年間です。
でも、日本語でした。どういう事かというと、私は中学校3年間を不登校で過ごしました。多くの日本人にとって中学校は行くのが当たり前です。
私の中学校時代の出席日数は3年間で50日ほどです。中学校時代は自分で勉強をしていました。朝、新聞配達をしてお金を稼ぎ、自分で勉強をする。それでも中学生の私にとっては無限と言えるほど時間が余ります。
みんなが学校に行っている間、犬の散歩をしたり、サイクリングをしたりする。多くの日本人にとって同じ国とは思えないような経験をしていました。当時、日本で不登校をしていた人数は2〜3万人ほどで、海外留学をしている日本人と同じくらいの数です。
中学校時代自主的に勉強をして、また、児童相談所の所長やそのスタッフの人達などに恵まれて『学校には行かないけど勉強を教えてくれる環境』というのにいました。児童相談所の人達は元々が小中高校の教頭先生や校長先生をしてきた人達が定年後勤めていましたので教えるレベルは何も問題ありません。
そこに好きなときに行き、好きなだけ勉強し、分からないときは好きなように聞く、と言う事をしていたので学力は何も問題ありませんでした。しかし、普通の高校に行こうにも内申点が悪すぎて受験しても確実に落ちます。なので通信制の高校に通うことになました。この、通信制高校も一般的な高校とはかなり違い、まず、生徒が社会人含めて15〜65才という年齢層で幅広くいました。さらには仕事と両立して卒業できるために授業は基本的に土日です。つまり、出席が年間数十日しかないのです。これも一般的な高校とはかなり違う世界です。
その私がそこで3年間勉強をして、滋賀県立大学という地元の公立大学にいきました。その時、私は衝撃を受けたのです。田舎の国公立大学というのは善くも悪くもザ・文部科学省。国の政策が強く影響されています。
私はそこで今までの自分の常識と違いすぎる人々と出会い、強烈な違和感を感じました。これは文字にしづらい体験です。敢えて文字にするなら、それまで中高時代、私は一般的な中高生というのを『ドラマやアニメゲームマンガ』の中でしか見たことがありませんでした。
その中で『意見の言えない一般的な生徒』『自己主張をしない普通の学生』『事なかれ主義の生徒』などが描かれています。私はそれをファンタジー、アニメゲームマンガ、ドラマの中の存在だと思っていました。それが、生の同級生を大学1年の時にみて、本当にこういう人達っているんだ!!と衝撃を受けたのです。
マックス・ウェーバー風に言えば行動様式、エトスがもはや違うのです。同じ日本語を使っていますが、ルータイス風に言えばブリーフシステムが違う。
苫米地さん風に言えば内部表現が違うので、同じ空間にいても違うものを認識しているのです。私のこの経験は最初強烈な違和感でしたが、徐々に
『何が違うのか?その原因は何か?』
という知的好奇心に繋がっていきました。不登校児がうまれる背景も自分なりに勉強しましたし、多くの日本人が何に影響を受け、どんな思考をしていくのか、というのも我流ながら色々調べていました。私は大学の生活を続ければ続けるほど『人間というのは本当に知らない間に常識に影響を受ける。そんなどうでもいいもの、自分でも自覚しないモノに自分の人生を影響されたくない』と思うようになりました。
とにかく、これは大多数と同じ事をしていると考えているようで考えてない人生に巻き込まれていく、と思い、私は無意識の内に東京に行こう、ベンチャーで働こう、とにかく、マイノリティになろう。と思うようになり、実際そのように行動しました。私の大学の学部学科の卒業生の進路は
㈱アイ・バード、アパ㈱、㈱アペックス、伊藤超短波㈱、㈱イビソク、㈱永昌堂印刷、エース証券㈱、㈱エコ損保、㈱エフエム滋賀、大倉工業㈱、奥儀建設㈱、共英製鋼㈱、(公財)京都保健会、㈱グラフィック(2名)、JAグリーン近江、㈱ケーイーシー、(生協)コープぎふ、三甲㈱、公立大学法人滋賀県立大学、㈱十六銀行、高山信用金庫、㈱中広、中部薬品㈱、槌屋スクリーン㈱、THK㈱、テンプスタッフ㈱、東濃信用金庫、日本通運㈱、阪急バス㈱、JA東びわこ、㈱ヒマラヤ、㈱平和堂、マックスバリュ中部㈱、㈱やまと、㈱ユニカフェ、㈱ロングラン、(医)和光会、米原市、多賀町、羽曳野市、福知山市、滋賀県警察 平成27年3月卒業生の就職先一覧 滋賀県立大学公式HPより
などです。殆どが滋賀県。
あるいは、滋賀県から通える所に就職をしています。東京に就職する友達など皆無でした。しかし、私がもし、中学校、高校を普通に通っていたのなら、人間とは知らない間に常識に影響されて考えてるようで考えないようになってしまう、ということには気づかなかったでしょう。私は母子家庭で育ったので、更にマイノリティでした。
しかし、母親が教育を大事にして、なおかつ父親も家を出た後も教育に充分お金を回せるだけのお金を送ってくれたことも幸いし、マイノリティでありながらマイノリティの厳しさを感じることなく育つことが出来ました。その結果、冷静に、多くの日本人とは違う自分、と言うのを実体験として感じる事ができました。
更に、就職先もベンチャー企業で、多くの人が感じる一般的な職業体験をしませんでした。なんせ、入社半年で取締役になり、売上を支え、更に会社の資金繰りのために消費者金融から何百万も個人で借りたりしていました。そんな社会人生活を送りつつも、地元の友達とはたまに会うわけです。もはや異文化、異世界の話でした。大企業に勤めた友人や、地元の市役所で働く友人の話は私にとって本当に同じ日本なのか??と疑うくらいの話でした。
そんな経験を通じ、私は私なりに『あなたは何教ですか?』と言われた際に『自分はマイノリティ教だ』と漠然と答えられるようになっていました。
社会のマジョリティは何か、常識とは何か、それを自分なりに眺めて、理解し、自分が何か人生の決断をする際には必ずマイノリティの方にいこう。常識的な方向には行かない。と決めていました。
私が本を読み、それを完璧に実践しようと心がけたのも『そういう風にする人が少ないから』でした。それは私自身が私自身に作った宗教、信念にマッチしていたのです。その実戦の結果、たどり着いたのがコーチングであり、苫米地さんでした。
私がであった当時の苫米地さんは今ほど本も出しておらず、そもそもコーチという概念すらありませんでした。苫米地さんのワークスに通った時も今のような渋谷の綺麗なビルではなく、六本木の雑居ビルの一角でした。
正直、怪しい(笑)
でも、マイノリティとはそういうものです。だからこそ私はそれでよかった。流されるのではなく、自らが選んだ、と確信して苫米地さんの本や、その後のルータイスの出会いも含めて選んで実践していました。
また、20代の頃は、資本主義世界の成功者に沢山会いました。30代で数十億から数百億の資産を築いたという人にも沢山会いましたし、私は営業マンとしてそういう人にかわいがられました。
40代、50代で数千億円の企業を経営してる経営者にも何人も会いました。年収何千万はあたりまえ。年間数億稼ぐのも当たり前。そういう人達です。私はその頃月給100〜200万程度でしたから、月給100〜200万なんて雑魚じゃん、という感じでした。
しかし、マイノリティ教の私にとっては『日本の資本主義の中で成功してる人達』というマジョリティに入りたくない。
これはちょっとわかりにくいですが、年収5,000万、1億円以上になってくると大体似たような人達になって行くのです。年収1億円以上は日本に1万人程度しかいませんが、なんとなく、持っている雰囲気が似てくるのです。
私はその十把一絡げになるのが嫌で、上場だ!成功するぞ!資産100億!いや1,000億!いや1兆円だ!!!!という世界に行くのが嫌でした。それは結局『何かに洗脳されてるだけじゃねえの?無意識の内に影響を受けてないなら、なんで年収高い人達は似たような行動をして、思考をするのだ?』というマイノリティ教ゆえの疑い、あまのじゃく的視点です。
20代の頃思ったのは100億、1000億円、1兆とか売上上げて似たような顔になるくらいだったら、俺は自分の道を行きたい、と思ったのです。でも、なんか貧乏なのはかっこ悪いし、年間数億円くらいの稼ぎを自由に稼げるくらいは欲しいな、と思っていたのを覚えています。無論、これも昔の話でゴールは更新されていますが・・・
お金で大成功したい!と思うこと自体がそもそもマジョリティです。だからこそ、私は何か違う、と思いました。自分発の宗教に合わないのです。
だからこそ『ゴール設定こそが大切で、自由意志に基づき主体的に選択されたものであり、現状を超えている必要がある』という教えが根本にあるコーチングはぴったりでした。これこそ、我が教義を更に発展させる考えだ、と自分で選びました。
それでは最初の質問に戻ります。『あなたは何教ですか?』です。多くの人はこれに答えられないのでは無いでしょうか。両親がいて学校に通っていた。そして就職をした。と言う時点で自分が何に影響されているか、一つ上の視点で見ることがしにくい環境にいます。まず、それに気づきましょう。
私は30代40代だけどフリーターという知り合いもいれば、ベンチャー企業の社長、と言う知り合いもいます。弁護士もいれば公認会計士も知り合いにいます。官僚も知り合いですし、超大手財閥系企業に勤めている人達もしっています。大学教授や著者の知り合いも沢山います。多種多様な人々との付き合いは必然的に自分の価値観を浮き彫りにしてくれます。あなたの知り合いや友人は似たような人達ばかりではないですか。
なぜ、官僚の知り合いがいないのでしょうか。なぜ、風俗嬢の知り合いがいないのでしょうか。なぜ、大金持ちの知り合いがいて、貧乏人の知り合いがいないのでしょうか。
なぜ、大学教授の知り合いがいて、本を一冊も読まない知り合いがいないのでしょうか。それはあなたが『あなたの知らない何教かに洗脳されている』からです。
『あなたは何教ですか?』を考えることはあなたの抽象度を上げる事にもつながり、コーチングの実践にも繋がるでしょう。
『あなたは何教ですか?』の前に宗教というのをどう捉えているでしょうか。宗教という言葉の英語はReligionです。これは、繰り返し読み実践する、と言う意味があります。
読者の方々はビックリするかも知れませんが、プロテスタントもカトリックも、日本語で言う「キリスト教」というものは、実は「宗教」ではなく、むしろ「レリジョン」(religion)なのです。確かに、英語、ドイツ語、フランス語などでこの「レリジョン」と言う言葉は、「宗教」と訳されていますが、「レリジョン」と「宗教」の言葉の語源を見ると、二つは異なったものであり、別の意味内容を持つものであることが分かります。
明治時代より以前は、ヨーロッパ生まれのこの「レリジョン」を表現する言葉は、日本にはありませんでした。もちろん、神道や仏教はありましたが、それらは「宗教」とは言われませんでした。その後、すなわち、明治時代になってから、特に仏教の関係でさまざまな「宗派」があったことから、「宗派」の「教え」=「宗教」という新語が造られたのです。しかし言語学的に考えると、この言葉は、ヨーロッパで昔から存在したラテン語のreligioまた、これに由来する近代語のreligionとは違った意味を持っています。
レリジョンの語源については、四、五世紀からさまざまな説が出されていますが(re-eligere=再び選ぶ、re-ligrare=再び結ぶ、re-legere=再び読む)、レリジョン、すなわち信仰によって人間が神と結ばれるという理解が普通でしょう。神を信じる、神を信頼すると言うことは、神についての「教え」があるということだけではなく、その教えに基づいて生き、行動すると言うことです。単なる「教え」を学ぶというものは、たとえば「イスラム教」を学ぶというように、教えたり勉強したり出来るものですが、真の意味のレリジョンは頭で勉強するのではなく、心の問題であり、心の中で神と結ばれると言う事です。
この言葉はホセ・ヨンバルト スペイン生まれ ドイツ・ボン大学法学博士 上智大学名誉教授 カトリック神父が書いた『カトリックとプロテスタントの違い』から取った一文です。ボン大学はドイツの有名大学でマルクスやベートーヴェンも在籍、研究者の中には265代ローマ教皇ベネディクト16世、経済学者のシュンペーター等もいる大学です。世界からみたら東京大学名誉教授よりも尊敬される所でしょう。このホセ神父の言葉を借りるなら信仰とは頭で理解することではなく、実践であるということです。聖書を読むだけがキリスト教ではない。実際に神を信じ、その教えに基づいて考え、生き、行動する。それがthe Christian religion=キリスト教なのです。
では、我々は
何を信じ
その教えに基づいて
どのように考え、
どのように生き、
どのように行動、
していると言えるのでしょうか。
それを自覚できないのが多くの日本人なのでは無いでしょうか。そのような状態なら正しいゴール設定など望むべくもありません。
仮に、世界にキリスト教、それもカトリック、プロテスタントの違いすらなければそこに生きる人達は『我々はキリスト教徒である』とすら認識しないでしょう。
『1.ランダム性 2.他のものよりも一つ上の抽象度での判断が出来る』
という条件を満たし、現状を超えたゴール設定をするためにも、我々は何教なのか、それを知るのはとても大切なことです。
ホセ神父はカトリックの司祭ですから、敬虔なキリスト教徒と言えますし、その点ではルータイスと同じです。しかも、この人はボン大学博士号を最優秀成績で取得しています。
『法哲学案内』(成文堂、1993年)『教会法とは何だろうか』(成文堂、1997年)『学問と信仰』(創文社、2004年)『道徳的・法的責任の三つの条件』(成文堂、2005年)『正義の感覚・理論・実現』(成文堂、2006年)などの本を出していますので読むと良いでしょう。
はじめに言葉ありきの世界観で育った人が、法哲学を学び、現代の法律・言葉の影響について書いているので、資本主義や民主主義、キリスト教への理解が更に深まるでしょう。
ビ・ハイアで入門本としてよく読まれている小室直樹さんの本の宗教原論にも
宗教という言葉と書いてあります。
「宗教」と言う言葉は、明治時代になって「religion」の訳語として作られた新しい言葉で、もともとのレリジョンの意味は、「繰り返し読む」といこと。
宗教とは何か
宗教の定義というのは、実は物凄く難しい。
本書では、このことを考えるのに、マックス・ヴェーバーの説を採ることにする。
マックス・ウェーバーはかくいった。宗教とは何か、それは「エトス(Ethos)」のことであると。エトスというのは簡単に訳すと「行動様式」。つまり、行動のパターンである。人間の行動を意識的及び無意識的に突き動かしているもの、それを行動様式と呼び、ドイツ語ではエトスという。英語では、エシック(ethic)となる。
ここで注意を一つ。英語の場合、どこに注意するかというと、語尾にsがないこと。sがあったらエシックス(ethics)となり、「倫理」と言う意味になる。
倫理というのは、ああしろこうするなという命令、もしくは禁止を指すが、その上位(一般)概念であるエシックはもっと意味が広い。禁止や命令も含むが、更に正しいだとか正しくないだとかと言う事も含む。そればかりか、更に意味は広く、思わずやってしまうことまでも含むのである。
たとえば、朝起きたときにある井人は水を三杯飲むとする。そんなことは善いとも悪いとも言えないけど、必ず飲むのであれば、それは一つの行動様式。そういうモノを含めてエシック、すなわちエトスという。
これは倫理道徳も習慣風俗も全部含んでいる。無論、正しくないと言うことも含めて。人間の行動吉敷の中には正不正と言うこととは関係ないけども、なんとはなしにやってしまうことがある。その中には習慣風俗もあれば、その人独特の事というのもある。
癖を例に取るとよいかも知れない。癖にも習慣風俗と関係ある癖もあるが、全く関係ない、その人だけがなんとなくやってしまうと言う癖もあるわけで、エトスとはそういうものも含んでいる。
ここから導けることで大事なことがある。日本人は無宗教だという言い方をするが、どこかの特定の宗派に属していないだけで、その日本人もエトスたる独特の行動様式は持っている。したがって、日本人にも宗教たる独自の行動様式がある筈だという風な解釈が可能である。
宗教の定義が、人々が受け入れてるエトスならば、一般的に言われている宗教以外も宗教になり得ます。
ちなみに、苫米地さんも『なぜ、脳は神を創ったのか?』の中で資本主義も、マルクスも宗教現象であると述べており、小室直樹さんも資本主義、マルクスは宗教現象といえると述べています。そういう意味ではApple教もありますし、ガンダム教、エヴァンゲリオン教、アイマス教なども存在し得ることになります。
厳密には、アニメ教ガンダム派かもしれませんが、宗教現象と言えるのです。つまり、中学校時代、雨の日も台風の日も、雪の日も、いついかなる時でも朝5時から新聞を配達し、そのお金でアニメのレーザーディスクを買って喜んでいた私は、アニメ教に入信し、エトスが変わった、と言えるのです。
また、最初の質問に戻ります。『あなたは何教ですか?』です。
何を信じ
その教えに基づいて
どのように考え、
どのように生き、
どのように行動、
していると言えるのでしょうか。
と聞きましたが、もし、これに答えられないと言う事は
あなたは
何を信じこまされて
知らない間にその教えを自分のものと勘違いし
どのように考えさせられ
どのように生かされ
どのように行動させられている
と言えるのでしょうか。
と言えませんか。先ほどキリスト教しか存在しない世界はキリスト教徒だという自覚すら無い、という話を出しましたが、その世界のようなものです。
苫米地さんは『なぜ、脳は神を創ったのか?』の中で『宗教とは催眠術のようなものであり、そして、神は私達の脳が作った情報に過ぎません』と書いています。ルータイスも信仰と目標設定について『はじめに神を信じてこそ、神が見えてくる』と言っています。
ルータイスは自らキリスト教を選んでいます。しかし、なんだか分からない間に自分以外の誰かから『私が神だ。私の教えにそって考え、生き、行動しなさい』と言われているとしたら。
これはコーチング的に大問題なのです。
コーチングにおけるゴールは『クライアント自身の自由意志に基づき主体的に選択されたものであり、現状を超えている必要がある』。
そして、自由意思とは『1.ランダム性 2.他のものよりも一つ上の抽象度での判断が出来る』こと、です。
そもそも、主体的でもなく、ランダム性もなく、作為的に選ばされています。そのブリーフシステムでいくら現状を超えたゴール設定をしても全く意味がありません。あなたが現状を超えたゴール設定をしたつもりでも現状維持を益々強めるばかり。あなたがゴール設定したモノにはたどり着けません。よしんば、たどり着けたとしてもそれはあなた自身で選んだものではないので何も幸せになりません。ゴール設定をした、アファメーションをした、だけども効果が出ないぞ・・・と言う人はその部分を疑った方が良いのです。
宗教の定義が、人々が受け入れてるエトスならば、一般的に言われている宗教以外も宗教になります。これを苫米地さん風に言えばエトス=内部表現であり、ルータイス風に言えばエトス=ブリーフシステムです。信じるものによってエトス(内部表現、ブリーフシステム)が変わります。信じているものが、神なのか、神なのか、お金なのか、電通なのか、それはなんでもいいです。人は必ず何かを信じています。
ルータイスならばカトリックなので神を信じ、教会を信じ、聖書を信じている、と答えるでしょう。あなたにはそれくらい自覚的に言える宗教はあるでしょうか。あなたは何教を信じているでしょうか、それはあなた自身が受け入れてしまっている、そして殆どの場合他人に埋め込まれてしまい、信じさせられている何かなのです。
あなたは本気で神を信じている人、何かしらの宗教を信じている人にあったことはありますか。多くの場合、それは異様に見えるはずです。千日回峰行という荒行があります。天台宗の修行です。
千日回峰行は7年間かけて行なわれます。1年目から3年目までは、1日に30キロの行程を毎年100日間行じます。定められた礼拝の場所は260箇所以上もあります。4年目と5年目は、同じく30キロをそれぞれ200日。ここまでの700日を満じて、9日間の断食・断水・不眠・不臥の“堂入り”に入り、不動真言を唱えつづけます。6年目は、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日。7年目は200日を巡ります。前半の100日間は“京都大廻り”と呼ばれ、比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼し、全行程は84キロにもおよびます。最後の100日間は、もとどおり比叡山山中30キロをめぐり満行となるものです。 天台宗HPより
千日回峰行をやりとげた酒井さんの修行中の動画
天台宗の総本山は比叡山延暦寺で私の地元滋賀県にあります。9日間の断食・断水・不眠・不臥と言う時点で常識を越えています。が、やっているのは同じ人間です。これも、仏教、天台宗、様々なものを信じ、エトスが変わった結果なのです。
酒井さんの経歴をwikiで簡単に確認すると
大阪市玉造生まれ。旧制中学卒業後、1941年(昭和16年)慶應義塾商業学校(慶應義塾大学の夜間商業学校)に入学。落第生で卒業が危ぶまれたため、慶應義塾の教授に薦められ、1944年(昭和19年)、熊本県人吉の予科練に入隊した。
そこで半年間の訓練を受けた後、宮崎県の宮崎海軍航空隊(後の松島海軍航空隊、陸上攻撃機)所属を経て、鹿児島県の鹿屋飛行場に移る。特別攻撃隊員として終戦を迎えた。戦後は図書館職員を諸事情により職場放棄、ラーメン屋を開業するが火事で廃業、株売買の代理店を始めるが大暴落で1億円の負債を抱え借金取りに追われ、そば屋の店員、菓子店のセールスマンなど職を転々とする。
33歳のとき結婚するが、結婚早々妻が大阪の実家に帰り、連れ戻そうと迎えに行ったことがきっかけで自殺してしまうという事件があり、ショックを受けて以後抜け殻のような生活を送る。その後39歳のとき得度し比叡山延暦寺に入る。
とあります。特攻隊の後はラーメン屋を開業するも火事に遭う、株売買の代理店で1億円の借金、妻に自殺される・・・そんな人が39才で得度します。この人がやり遂げられたのは教えを受け入れ、エトスが変わったからでしょう。マックス・ウェーバーによるとカルヴァンの予定説を受け入れたプロテスタントの人々のエトスがかわり、結果的に資本主義が生まれた、と書いています。
重要なポイントは『思考、行動、何もかもが変わった』と言う事です。それは何かを『信仰』した結果です。我々もアファメーションを正しく機能させるためには、まず、そもそも私自身を変えてしまったモノは何なのか、私自身を変えてしまっている私以外の何かは何なのか、それを突き止める必要があります。それを突き止めた結果、自分が設定したゴールをまるで敬虔な信徒が神を信じるかのように自分のゴールを神への信仰並みにたかめる。そうすると嫌でもゴールは達成出来るでしょう。人は必ず何かの影響を受けています。どうせ何かに影響されたり、洗脳されてるなら自分のゴールを自分の神にしましょう。
仏教とコーチング
次に、仏教とコーチングについて考えてみたいと思います。私の0~3才を京都で過ごし、その後大学卒業まで滋賀県に住みました。目の前に比叡山が琵琶湖越しに見えて、高校は比叡山のある大津市にある高校に通いました。高校に行くまでにはバスで石山寺などを通って行きます。もし、寺院仏閣ではなく常に教会があって比叡山がなかったら、私の精神世界はもう少し違った影響を受けていたかも知れません。
統計局の調査によるとキリスト教の宗教法人の数は約4,500。これに比較して統計局の調査によると仏教の寺院の数は約75,000。圧倒的な差があります。
日本に生きている以上、ルータイスが強く影響を受けているキリスト教の理解を深めるのも大事ですが、それと同時に自分の住んでいる国の文化から見てコーチングという考え方はどういうものなのか、と言う事を考えることは非常に重要なことです。
これをせずにやることは、効くかどうかも分からないけど誰かが言っていた薬を飲むようなものです。自分の考え、自分が実践することはきちんと吟味する、その姿勢こそが自らを成長させますし、苫米地さん風に言えば抽象度を上げる行為に繋がり、ルータイス風に言えばゴール達成能力を高めることです。
仏教の開祖、釈迦的な発想で言うとアファメーションは効かない、と考えてみると面白いと思います。釈迦はマントラを否定しましたし、神の存在も縁起の一部に過ぎないと言っています。もしそうなら、アファメーション自体に効果があると信じ、マントラのように唱え、朝晩イメージしても効かないというかもしれません。
しかし、釈迦的な発想で考えてもコーチングは効くと言えるでしょう。全てが関係性で成り立っていて、自我もない、神もない、宇宙は全て関係性だ。それだけで存在している絶対的なもの(神や魂)などはなく、それぞれの関係性において意味づけられているだけで、関係性が存在を産み出すのだ。という考えに基づくなら、関係性を操作すれば自我はいくらでも変更可能で、その自我を変更する手段としてのアファメーションならば効果があると言えます。
その自我をブリーフシステムと呼ぶのか、自我というのか、内部表現というのかはそれぞれの好みで言えばいいのです。ただ、釈迦ならいちいち文字として書かれたアファメーションを読む必要は無く、言語を介さない瞑想だけでゴール達成するのでは無いでしょうか。
釈迦であればアファメーション、コーチングの本質を文字以上の抽象度で捉えるはずです。アファメーションというと書かれた文章というイメージが強いですが、それは違います。文字だけがアファメーションではありません。逆に言うと文字を読むだけのアファメーションは意味がありません。先ほど紹介したホセヨンバルト神父の言葉を再度読んでみてください。
レリジョンの語源については、四、五世紀からさまざまな説が出されていますが(re-eligere=再び選ぶ、re-ligrare=再び結ぶ、re-legere=再び読む)、レリジョン、すなわち信仰によって人間が神と結ばれるという理解が普通でしょう。神を信じる、神を信頼すると言うことは、神についての「教え」があるということだけではなく、その教えに基づいて生き、行動すると言うことです。単なる「教え」を学ぶというものは、たとえば「イスラム教」を学ぶというように、教えたり勉強したり出来るものですが、真の意味のレリジョンは頭で勉強するのではなく、心の問題であり、心の中で神と結ばれると言う事です。心の中で神と結ばれる、くらいの感覚でアファメーションを感じるのと単に読んで嬉しいなあ、は次元が違うのです。
神を信じる、神を信頼すると言うことは、神についての「教え」があるということだけではなく、その教えに基づいて生き、行動すると言うことです。単なる「教え」を学ぶというものは、たとえば「イスラム教」を学ぶというように、教えたり勉強したり出来るものですが、真の意味のレリジョンは頭で勉強するのではなく、心の問題であり、心の中で神と結ばれると言う事です。
はじめに言葉ありき、のルータイス的世界観を作ったキリスト教のカトリック神父ですら、読んで学ぶだけではなく、心の問題であり、心の中で神と結ばれると言う事です、と書いています。これは人間の文字の限界を語っています。
それでは心の中で神と結ばれると言う事を、文章で定義してみてください。それは不可能なはずです。愛という定義を文章でやる。神という定義を文章でやる。信じる、という定義を文章でやる。どれだけ書いても、誰かが『それは違う』と言うはずです。文章で定義するのは限界があるのです。1億文字書いても書ききれない、それが文字の限界です。
心の中で神と結ばれる、という状態は敬虔な信徒が本気で祈っているときの脳の状態、心の状態でそれは体験するしかありません。ルータイスはそれをI*V=Rや、ワーズ・ピクチャー・エモーションという表現で伝えようとしています。
文字を読み、イメージし、情動を貼り付ける事。それがアファメーションです。はじめに言葉ありきのキリスト教の言葉は神であり、神そのものです。それであれば、人間が産み出した文字で、神の言葉など書けるはずもなく、神の素晴らしさを人間の文字で書けるわけがありません。それが分かっているからこそ、聖書は神より偉くなりませんし、聖書を読むだけではなく、実践が必要とされるのです。はじめに言葉ありきのキリスト教的世界観ですら言葉の限界を定めています。もっとも、それは人間の言葉の限界であって、神の言葉の限界ではありません。
つまり、自分の書いたアファメーションをマントラのようにありがたがって、その言葉自体に意味がある、力があると思って唱えても何の意味も無いのですが、そこに『心の中で神と結ばれる』くらいの気持ちで『イメージの中でゴールと結ばれる』になってはじめて効果が出ます。
この状態は釈迦が重要視した瞑想と同じです。釈迦の悟りは文字に出来ません。多くのお経や釈迦の教えが文字で残っていますが、釈迦自身が
『どれだけ私の言葉を残したとしても、それは私の残した教えその物では無い。』と言っています。
有名な『私の指ではなく、私が指さすものをみなさい』という言葉です。悟ろうとしてお経を唱えたり、仏教経典をありがたがって読んでも意味が無いのです。重要なのは、その文章に書かれている先を考えること、文章に書いてある行間を読み考えること、イメージすることなのです。
全ての人を悟らせて一切の苦しみから解放する
という釈迦のゴールは素晴らしく抽象度が高いゴールです。この全ての中には『今現在だけではなく未来永劫全宇宙』が含まれていたことでしょう。そんな状態を文字にしてアファメーションにしていたでしょうか。釈迦は瞑想だけでそのゴール世界を体感していたはずです。
ゴール達成のために本を読み、文章を書くことは大事なのですが、もっと大事なのはそれより先、文字より高いレベルの思考を常にすること。それをせずに現状を超えたゴール設定を達成するというのはありえません。私の周りにも沢山本を読む人がいますが、文字を超えた思考をせず、いくら数百冊、数千冊と本を読んでも全く無意味です。
また、仏教とコーチングという視点で見ると面白いのが、宗教と科学の歴史です。はじめに言葉ありきのキリスト教は、神の存在を証明するために数学や科学を発達させました。これは日本人にはイマイチ実感しづらいことかも知れません。
しかし、科学者は常に神の存在を証明するために研究し続けましたし、神の世界を描こうと音楽や芸術が発達しました。事実、万有引力、ニュートン力学をはじめ素晴らしい科学者とも言えるアイザック・ニュートンもキリスト教を信じていました。
「太陽、惑星、彗星から成る極めて美しい天体系は、知性を有する強力な実在者の意図と統御があって、初めて存在するようになったとしか言いようがない。・・・・至上の神は、永遠、無窮、全く完全なかたであられる」と言っています。ニュートンは、宇宙は偉大な神によって創造され、そのおかげで存在しているのだと信じていました。
ニュートンは自分の科学研究について、「自分は、真理の大海の浜辺で戯れているのだ」と言っています。このニュートンの考えを、非科学的だなあと感じるのが文化の違いで日本人的発想なのです。ニュートンや多くの科学者にとって『神を信じること』こそが科学的発想であり態度だったのです。
多くの科学者、数学者、芸術家、色々な人達が神を信じて科学を発達させました。その中には、コーチングの基礎となった心理学もあれば認知学もあります。
しかし、苫米地さんの本を読んでいれば分かると思いますが、ゲーテルの不完全性定理、グレゴリー・チャイティンの証明、パトリック・グリムの定理などにより『完全な存在』いわゆる神は存在しないと証明されています。
神の存在を証明するために発達した科学。そして、神がいると信じるキリスト教。その敬虔な信徒であるルータイスが作ったコーチング。しかし、神はいない。なんだか不思議だと思いませんか。それでもアファメーションは効く。ますますおかしいと思いませんか。こういう事に一つ一つ思考をめぐらせ、自分なりに解決をせず、妄信的に苫米地さんやルータイスを信じるのは大変危険な行為です。苫米地さんやルータイスが望むようなコーチングの結果にもならないでしょう。
苫米地さん自身がブログに
皆さんが、キリスト教、イスラム教、仏教などのどれを選択することも自由ですし、どれも選ばないことも自由です。ただ、選択するからには、徹底的に、それぞれの始祖の主張まで立ち返って思索し、吟味するべきものであり、特定の指導者の発言や、「神秘体験」などの個人的な体験に依拠するべきではないというのが、私の常々の主張です。イエス・キリストを理解してない人たちへ、−(仏陀を理解していない人たちも)より
http://www.tomabechi.jp/archives/50316486.html
これはコーチングを信じ、実践しようとする人々に
皆さんが、コーチングを選択することも自由ですし、選ばないことも自由です。ただ、選択するからには、徹底的に、それぞれの始祖(ルータイス)の主張まで立ち返って思索し、吟味するべきです。特定の指導者(苫米地さん)の発言や、「神秘体験」などの個人的な体験(出版社の宣伝するコーチングで成功した!という体験談など)に依拠するべきではないというのが、私の常々の主張です。
と言い換えて伝えられませんか。
その言葉を借りた上で『神の存在を証明するために発達した科学。そして、神がいると信じるキリスト教。その敬虔な信徒であるルータイスが作ったコーチング。しかし、神はいない。なんだか不思議だと思いませんか』に思考を深めていきましょう。この不思議を解決するのが仏教であり、釈迦です。
釈迦は絶対的存在は存在しない、と2,600年前から言っていました。ニュートンなどをはじめとする古典物理学の世界ではなく、関係性が存在を産み出す、絶対的な存在は存在しない、などは現代の物理学、量子力学の考え方です。仏教は科学的なのです。
釈迦風に言えば
『神はいてもいいけど、絶対的な存在では無い。縁起の一部に過ぎない』
『その神を信じて奇跡が起きたとしてもそれはその人の心が起こした事で神様の絶対的な力ではない』
と言う事でしょう。神様はいてもいなくてもいい。ただ、いると信じて心に敬虔な気持ちが起きる。それは絶対的な神様がいるからではなく、その人の心が起こしている。その人の心が神様がいると思っているから神様もいると言えるけど、それはその人の心が生み出しているものであってその人の心が無くなればいなくなるので絶対的な存在では無い。神を信じる人がいるから信じる人の中に神がいるのであって、神がいるから神を信じられるのではない。
ということは、いようがいまいが確信したらいるのと同じです。神がいる!と信じてる人に神がいるように、ゴールがある!そして達成している!と確信してる人に達成方法が見えて達成してしまうというコーチングのシステムが機能するのは何の問題もありません。
神がいようといまいとコーチングは機能する
これはルータイスが聞いても矛盾しないと言うでしょう。ルータイスにとってそういう人がいることも含めて神の思し召しです。ルータイスは神を信じない人に神が見えないのはしかたない、スコトーマが出来るからね、と言うかもしれません。
ルータイスにとってアファメーションを唱え、世界を創造していく行為は神との共同責任であり信仰の実践だったのだと思います。ただ、多くの日本人にとって重要なのは信仰の実践ではなく、コーチングの機能、ゴール達成だと思います。私もそれでいいと思います。しかし、そのゴール達成に必要な確信は信仰を実践する並にイメージ力が必要なことだと理解しておいてください。
浄土真宗
親鸞とコーチング
次に、日本で一番信徒が多い浄土真宗的視点からコーチングを考えてみましょう。浄土真宗の開祖は親鸞ですが、親鸞自身は寺院も持たず、開祖を名乗らず、ひたすら自分の考える仏教の救いの教えを説き続けていました。
親鸞の師匠は法然です。親鸞を学ぶなら法然もセットで覚えた方がいい。余談ですが、20代の頃、親鸞と法然と空海と最澄の違いすら私はそれほど明確に分かっていませんでした。これは今思えば恐ろしい状態だと思います。自分に知らず知らず影響を与えている筈の思想、文化、宗教に対して無知になり、ただなんとなく支配している常識や空気に無自覚に影響されて生きてきた証拠だからです。
この本ではコーチングが主題なのにもかかわらず、キリスト教やら仏教やら、宗教についてやたら書いていますが、それはコーチングの大前提である
『自由意思で主体的に現状を超えたゴール設定する』
のを満たすためにも、自らがどのようなものに影響されて生きてきたかを知ることが絶対必要だからです。宗教、文化、思想など、自分より遙かに巨大なシステムに自分が無自覚にどういう風に影響を受けているのかを吟味せずに、自分の内面ばかりを見つめてもそこに現状を超えたゴールなどありません。
さて、何故、親鸞とコーチングなのかというと、非常にアファメーション的要素を持った教えだからです。親鸞の思想は苫米地さん自身も指摘してるとおり、どちらかというとキリスト教に近いものです。親鸞が有名なのは悪人正機という言葉です。善人も救われるのだから悪人だってなおのこと救われる、と言う言葉は強烈で有名です。親鸞の教えは簡単に言うと
念仏を唱えただけで救われる
誰でも救われる
一回でも、声にも出さなくていい、心の中で唱えるだけで救われる
なぜなら、既に誰もが阿弥陀仏により救われているからだ
という教えです。誰でももう救われている、というのは強烈な教えです。この教えに影響を与えたのは当然、親鸞の師匠である法然です。法然が浄土宗を開くまでの仏教は
『救われるためには苦行をしよう』
『死んだ後に極楽に行くためには高い仏像を買う必要がある』
など、誰もが救われる、という教えからはほど遠いものでした。当然これは釈迦の教えである仏教からもかけ離れていました。法然は全ての人を救いたいと思い、高い仏像や寄付など必要なく、専門的な苦行をする必要も無く、念仏を唱えていれば救われる、という教えを展開しました。さらには日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然と言われています。
この教えは旧来の仏教やそれと癒着している権力から嫌われ、法然は徹底的に弾圧され、流罪にあっています。旧来の権威を否定するこの教えは、それでも法然は『国家権力におもねるよりも、全ての人を救いたい』という想いで教えを広めていたのでしょう。
大衆を救うような教えとはそういうものです。社会全体を救いたい、と望むなら現在の支配者に酷い目に遭います。釈迦も暗殺されたという説があるくらいですし、イエス・キリストも磔に合いました。社会全体を救う、という行為はその当時の権力者が『この人は救われる、この人は救われない』と決めた基準を破壊し『全員救われる』ないしは『権力者の基準は間違っている。救われるか救われないかなんて人間には分からない』と主張することです。
現代風に言うなら、官僚が偉くて大企業が偉い、というけどもベンチャーの方が偉いし、成功するし、楽しいよ、というようなものです。しかも、その教えが正しくて、実際に官僚や大企業よりも大きくなっていったら・・・?攻撃されて当然です。
本気で現状を超えたゴールを、しかも社会的に大きなゴールを掲げているなら旧勢力から攻撃されて当たり前なのです。ライブドアが叩かれたのもその性ですし、楽天が叩かれてないのは旧勢力にうまくおもねってるからです。それがどっちのほうが正しいのか、それはどちらでもいいのです。ただ、あなたのゴールが『今より社会全体をよくしたい』ならそういうことが起きますよ、と言う事です。
旧来の勢力から叩かれた法然ですが、その教えを曲げることは無く死ぬまで続けていました。その法然の弟子の一人に親鸞がいたのです。法然と親鸞の違いは色々ありますが、その教えで一番大きなポイントは、法然は『念仏だけでも良いのだけど、念仏を沢山唱えたら救われる』で、親鸞は『声に出さなくても良いし、一回でも心の中でもいいから唱えれば良い』です。
親鸞を理解するためには教行信証と歎異抄を読むことをお奨めします。ここでは歎異抄を紹介したいと思います。聖書も読んでない、コーランも読んでない、上座仏教の仏典も読んでない、さらには歎異抄も読んで思考を深めてないとなれば、最早、自分は自分以外の何かに洗脳されているのは確実です。その状態でゴール設定をしても現状維持の範囲内である可能性が高いのです。
歎異抄は私も好きで、全文書き起こしたくらい好きです。
ルータイス、苫米地さんの考えたコーチングは、釈迦的な観点でコーチングを見ても、浄土真宗的観点でコーチングを見ても、機能することになります。浄土真宗のゴールは『浄土に生まれて仏になる事』その為に『念仏というアファメーションを称えてゴールを実感しよう』です。
例えば歎異抄の一の
『阿弥陀仏の誓いの不思議なお力に助けられて、浄土に産まれることが出来ると信じて、そして念仏を唱えようと思い立つ心が起こるときその時既に阿弥陀仏は救いに抱かれるめぐみをお与えになっているのである。』などは、時間は未来から流れている。ゴールを掲げて、アファメーションを称えるとき、既にゴールは叶っていると感じて喜びを感じる事が出来れば、既にその時ゴールは叶っている、と言えるでしょう。
二の
『あなたがたが、十余りの国々の境を超えて、いのちがけで訪ねておいでになったこころざしは、ただひたすら極楽に生まれるための方法を問い、訪ねようとお考えになったためとと思われる。ところが、それにもかかわらず、この私が念仏以外にも浄土に生まれる方法を知っており、またそれらのことを記した書物なども知っているだろうと推測して、是非それが知りたいと思っておいでになるようにお見受けすることは大変な誤りである。』というのは、色々なセミナーに参加して参加して本を読んで読んで、まだ他に方法があるのではないか、もっと楽出来る方法があるのではないか、あるいは更に効率的な秘密の方法があるのでは・・・と探し求めている人がいるけど結局の所答えはシンプルで『ゴール設定して臨場感を感じましょう』につきる、と言えませんか。
八の
『念仏は、真の信心をもってこれを称えるものには、行でもない自然でもない。自己の才覚を頼みとして行うのではないから、行ではないというのであり、自己の才覚を頼みとして作る善でもないから、善ではないというのである。まったく仏のお力によるもので念仏を称える人自身の力とは無関係であるから、その人にとっては行でも善でもないのである』は、ゴールに臨場感を感じているとき、やっている事はゴールから見てコンフォートゾーンなのだから、やろうという気も起きずにやっているし、良いことをしよう、とか考えずにやっている、と言えるでしょう。
九の
『念仏を称えておりますが、躍り上がるほど歓喜の心は豊かに湧き上がってまいりません。またはやく浄土に赴きたいと思う心にもなっておりませんが、これはどういうわけでのものでありましょうか。』という素直な質問も、ゴールを掲げてアファメーションを唱えているのですが、なかなかI*V=Rがうまく行きません・・・どうすればいいでしょうか、という良く効く質問と言えます。
同じく九の
『また浄土へ早く参りたいと思う心もなく、わずかばかり病気にかかったりすると、死ぬのではなかろうか、と心細く思うのも、煩悩の仕業である』というのも、ゴールを掲げてアファメーションをしてるのに、ちょっとでも売上があがらなかったり、見込みが消えたり、嫌なことがあると直ぐにゴールが見えなくなって現状維持の悪い部分ばかりに囚われる姿が絵が描かれています。
『無始永遠の昔から今日まで、生まれ変わり死に変わり流転してきた苦悩の世は、懐かしい古里してあるばかりに、捨てる事がむつかしく、まだ生まれてみたこともない安楽の浄土が恋しく思われないと言うことは、本当によくよく煩悩が激しいからである。』などはゴールという素晴らしい世界があり、現状を超えたゴール設定をしてそこへ行く事は最高のことなのに、辛かったり嫌なことがある現状維持の個フォートゾーンがついつい古里のように慣れ親しんでいるので戻ってしまうという事を示しているでしょう。
十一の
『文字一つ知らない愚かな人が念仏を称えているのをみて、お前は仏の誓いの不思議なお力を信じて念仏を称えるのか、それともみ名を称えるの不思議な力を信ずるのか、と言って驚かし、誓いの不思議とみ名の不思議との二つが持つ意味合いをはっきりわかるように解き明かさないで、人の心を惑わす例がある。』というのは恐怖で煽って自己啓発セミナーを売り込む人々にだまされるな、という警告とも言えます。
このように、親鸞の歎異抄はアファメーション、コーチングと非常に似ている部分があるのです。それも、浄土真宗がキリスト教とにているからです。親鸞の教えは釈迦の教えよりもイエス・キリストに近いものになっています。釈迦は神様を否定していますから、神のような阿弥陀仏も語っていません。そういう意味では釈迦の教えと少し違っています。
元々、法然、親鸞の教えの元になっているのは中国の浄土教という教えです。大乗仏教の一つで、西暦五~六世紀頃に確立した教えです。歎異抄の中で善導大師という名前が出てきますが、それが法然・親鸞が影響を受けた人です。釈迦は紀元前五世紀頃の人といわれているので釈迦から浄土教が出来るまでに既に1,000年近く経過しています。そこから親鸞が生まれたのは一二世紀ですから
釈迦 紀元前五世紀
善導 紀元六世紀
親鸞 紀元一二世紀
なので、実に1,700年近く経っています。これだけ時間が経っていたら変わってきても良いでしょう。しかし、表面上変わったとしても、ゴールである『全ての人を救う』というのは変わっていません。
釈迦は『すべては幻(後に空という定義になる)だ』と語りました。全てが幻なら、悩むことも喜ぶことも幻です。生き死にすら幻なのです。苦しいと思ってること自体が幻なら、全て好きな幻を選んだ方が良いでしょう。悩むこと自体にも意味が無いのです。自分を救ってくれる神様も存在しないかわりに、自分を苦しめているものもありません。
イエス・キリストは『神の愛は無限だ』と語りました。何かをしたら救われて、何かをしたら罰せられる。そんな恣意的な存在ではなく、もっと圧倒的に、無限に、全てを愛してる存在だ、という意味です。そうならば、人間の価値観で罪を犯そうが、良いことをしようが、関係ありません。そんな物を超越して、全てを愛しているのです。だから全て神に愛され、救われます。
歎異抄で書かれているのもそれと似ていませんか。人間が生きているうちにする良いことも悪いことも全部前世からの宿業によって決まっていて、自分で良いことをしたと思っていてもそれも宿業のせい、悪いことをしてしまっても宿業のせい、全部、自分のせいじゃない。そして、阿弥陀仏はそれを全て超越して全部救ってくれる、という思想です。仏様の御心は人の善悪を超越してるのだから全て救われる、と言う事です。
釈迦、イエス・キリスト、親鸞などに共通する点は
人間が何をしても意味が無い
と言う点です。非常に空しいというか、元も子もないというか、神も仏もないというか(笑)そんな気がします。イエス・キリストは『神の愛は無限で人間が良いとか悪いとか、罪とか罰とか関係ない』という表現で、親鸞は『阿弥陀仏の誓いのお力は無限だ』となります。釈迦は『そもそも全部、幻だ』です。
人間が宗教を求めるとき、必ず救いがあります。しかし、釈迦も、イエスも、親鸞もそれを否定しているのです。『全部、空だ。幻だ』と『何しても救われてる』は同じです。人間は生きている間しんどいわけです。良いことがあったり悪いことがあったり、楽しいことがあったり辛いことがある。そんな人生を少しでも幸せに生きたいと願ってるわけです。たとえばルターが批判した免罪符などを買ってしまうのも人間が宗教に救いを求めている証拠です。罪の意識を消して清々しく生きたいわけです。つまり、人間は自分が生きている間の安心感や幸福感を宗教に求めるわけです。そのためならどんな苦行や難行もいとわないし、寄付もするわけです。それによって気持ちよくなれるわけです。
しかし、
神の愛は無限 仏様の御心は無限
そもそも、人間の感覚で良いこと、悪いこととか言うこと自体おかしい
神様や仏様の価値観なんて人間で分かるわけがない
そして、全部救ってくれる
のであれば、なんで免罪符なんか買う必要があるのでしょうか。なんで修行する必要があるのでしょうか。バチが当たる、など一切気にする必要もないのです。つまり、釈迦、イエス・キリスト、親鸞が言っていることは
救われようとしなくていいよ、既に救われてるよ
という事なのです。釈迦なら『救われようとしなくていいよ。だって、あなたの苦しみ自体が幻だからね』かもしれません。これは救いであり絶望なのです。
釈迦の与える絶望は『え?じゃあ自分でなんとかしろってこと?』という事です。イエス・キリストや親鸞が与える絶望は『え?頑張ったら神様or仏様が救ってくれるんじゃないの?もう救われてるって事は頑張る必要がないって事?』です。
釈迦なら『全部、幻なんだし、悟って自分でなんとかしなさい。そのお手伝いはしますよ』
イエス・キリストや親鸞なら『神様仏様がもう救ってくれているよ。え?救われている実感が湧かないから不安?あっそう。でも大丈夫だよ。君が感じられなくてもどうせ救ってくれるからね』
とも言えます。救いを求める人達は救われている実感が欲しいのです。にもかかわらずそんなことを言われたら一体どうしたら良いんだ、と途方に暮れます。それでも、釈迦やイエス・キリストや親鸞はその態度を崩しません。ここで、苫米地さんのブログの文章を引用しましょう。
イエス・キリストを理解してない人たちへ、−(仏陀を理解していない人たちも)
http://www.tomabechi.jp/archives/50316486.html
ところでこれら、イエスや仏陀の論理が、無矛盾だからこその空しさもあります。それは、彼らの論理が、証明論理の系の中で無矛盾を維持しているということは、彼らの主張は、論理的には、我々になんの御利益(救い)ももたらさないからです。だからこそ、無限後退とならずに、無矛盾な主張を維持できるわけです。逆に、御利益を主張できる宗教は、それは、必ずイエスや仏陀が退けた矛盾するカルト的宗教ということになります。以上終わり。
イエスでいえば、神は無条件かつ一方的に愛してくれているわけで、ユダヤ教律法主義における罪人であっても救われる可能性があるということですが、同様に、律法主義における模範的な人間も救われない可能性があるということです。神はあくまで、人間の側の努力にかかわらず、神の自由な判断で人を救うのですから。これは、人間は何もしても変わらないという発想を生み出す、空しさを内包しています。イエスが言っているのは、本質的には、神の、人間とは何の関係もない自由な行動のおかげで、どんな人間であっても我々は救われる可能性があるということだけです。これに何の保証もしていません。保証をした瞬間に、イエスの教えは、彼の退ける「カルト」となります。ただ、イエスの主張の「神が一方的に無条件で人間を愛している」という主張を全面的に受け入れるならば、救われるというそれだけです。つまり、その主張の受容、即ち「信仰そのもの」が「救い」であるという非単調論理です。何の保証もなければ、なんの見返りもありません。救い=信仰というのみの主張です。確かに、空しいといえば、空しい論理です。ただし、一度イエスの言葉を受容するならば、徹底的な救いであるとも言えます。
仏陀でいえば、まさに「空」の空しさです。「縁起」によれば、苦しみも空ですが、喜びも空です。勿論自我も空であり、全ての宇宙は空ですから、まさに空しさを内包した考え方です。後に中観思想とよばれる大乗仏教的見方が、仮観を対応させて、中観を生み出したことは、前にも書きましたが、空観の本質的な空しさは変わりません。ただし、仏陀の主張である「縁起」を受容するならば、全ての苦しみから解放されることは間違いありません。やはり、徹底的な救いであるとも言えます。
正に、イエスや仏陀の言葉が、論理体系で無矛盾であればこそ、彼らの言葉は、論理的には空しいものです。だからこそ、「カルト」的でないのです。彼らの発見を自らのものとするということは、安心して、立ち止まって、思考を停止できるということにはならないということです。それは、ただの狂信です。また、それをさせるのがカルトです。イエスや仏陀の言葉を受容するということは、継続的に我々の側でダイナミックな思考活動を続ける必要があるということでもあります。(それが彼らのいう信仰行為となります。)止観の「止」も止めるというより、ダイナミックに制御するという意味です。その果てに、サトリがあるのでしょう。もちろん、イエスや仏陀の発見を受容するということは、科学的もしくは哲学的な行為であり、これが、伝統宗教宗派に帰属するか否かとは何の関係もないことはいうまでもありません。
イエス・キリストを理解してない人たちへ、−(仏陀を理解していない人たちも)
http://www.tomabechi.jp/archives/50316486.html
より。
この文章の中でコーチングをやるときに気をつけるべき文章もあります。たとえば下記を読んでください。
実際には、イエスや仏陀が退けた矛盾で固められているものがカルトです。基本的には、イエスや仏陀が退けた「人間の何らかの『正しい』営みが、その人に返ってくるという『御利益主義』」がカルトの典型です。だからこそ、ハマる人が多いのだと思うし、また、巨額のお布施を受けて、これらのカルト教団が成り立っているのだと思いますが。ルータイスも苫米地さんも『私を信じれば救って上げる』などとは一言も言っていません。ルータイスも苫米地さんが言っているのは
『ゴールを設定してなんとかしよう』
ですし
『現状を超える方法は教えて上げるし、現状の問題を解決する方法は教えて上げるけど、それはやるあなた次第だよ』
です。にもかかわらず、ルータイスも苫米地さんを盲信し、それをやれば自分の苦しみがなくなる!と暴走している人もいませんか。現状を超えたゴール設定もせず、自分中心のWant toを捨てる事もなく、高い抽象度を持つこともせず、ただ本を読んでワークもしない、それでいて本は沢山買って苫米地さんのセミナーにはひたすら参加して・・・そんな人は釈迦やイエス・キリストや親鸞からも『自分で何とかしようね』と言われるでしょう。
他にも下記の文章を読んでください。
ところでこれら、イエスや仏陀の論理が、無矛盾だからこその空しさもあります。それは、彼らの論理が、証明論理の系の中で無矛盾を維持しているということは、彼らの主張は、論理的には、我々になんの御利益(救い)ももたらさないからです。だからこそ、無限後退とならずに、無矛盾な主張を維持できるわけです。逆に、御利益を主張できる宗教は、それは、必ずイエスや仏陀が退けた矛盾するカルト的宗教ということになります。救いを宣伝してくるのは、本質的にカルトです。そういう意味では、ルータイスや苫米地さんの教えを『ゴール設定せよ。そして自らなんとかしよう』と広めようとしても広がらなかったでしょう。それ故、自己啓発的なマーケティング戦略が行われました。しかし、本質的な部分は変わってないのです。
『彼らの主張は、論理的には、我々になんの御利益(救い)ももたらさないからです。』という意味は、イエスなら『信ぜよ、さらば救われん』と言っています。でも、救われる証拠は何も提示してくれません。信じたので救われていると確信させてくれる奇跡も起きません。『何の保証もなければ、なんの見返りもありません。救い=信仰というのみの主張です』なのです。『仏陀でいえば、まさに「空」の空しさです。「縁起」によれば、苦しみも空ですが、喜びも空です。勿論自我も空であり、全ての宇宙は空ですから、まさに空しさを内包した考え方』なのです。
多くの人は宗教とは救いをもたらしてくれるものだと思っていますが、逆なのです。救いなどない。それが本当の意味の宗教で、救いがありますよ、と宣伝してくるのは全てカルト、嘘、騙しなのです。しかし、釈迦の教えもそれを広める方便として密教の御利益や葬式とか色々生まれました。あくまでそれは方便なのです。仏教も、キリスト教も色々、社会的に制度的なもんだいはありますが、それと釈迦とイエスキリストの教えが間違っている、は別の問題です。
コーチング的な観点で見るときゴール設定は
1 自分中心のWant toを捨ててみんなの為のゴールを掲げる
2 自分に嘘をつかない
3 現状を超えたゴール設定
この3つを見たそうと思ったらめちゃくちゃ大変なのです。そもそも、自分だけ、自分中心のWanttoを捨てましょう&自分に嘘をつかない、と言う時点で多くの人が破綻するでしょう。なぜなら、マーケティングで寄ってきた人達は『自分中心のWant to』を叶えたい人達だからです(笑)そういう意味では罪作りなマーケティング戦略ともいえますが、もっとも強欲で抽象度が低い人達から救おう、と言う素晴らしい教えの実践、とも言えます。
救いをウリにしてくるのは全て嘘で、全部結局自分がなんとかするしかない、と言う世界の前提に立つと、自分のゴールと神、仏は同じ価値を持つことになります。
神を信じたらこんなに良いことがあるよ!!と言うのと自分のゴールを信じたらこんなに良いことがあるよ!!!というのはコーチング的な観点から見たら同じ脳の働きだからです。ただ、他人の設定したゴールか、自分の設定したゴールか、の違いです。
他人の設定したゴール(神様、解脱、電通なんでもいい)をゴールとして受け入れている場合は、基本的にHave toなので生産性が上がりません。達成した時はちょっと嬉しいですが、それ以外は苦行が続きます。
自分の設定したゴールをゴールとして受け入れていてそれがゴールの条件を満たしている場合、Want toなので達成しようがしまいが楽しいですし、生産性も高いので基本的にスルスルと達成出来るでしょう。
あなたは慣れ親しんだ他人のゴールとしんどい現状維持を選ぶでしょうか。それとも、新しい挑戦として自分の設定したゴールからくるコンフォートゾーンを選ぶでしょうか。よくよく吟味する必要があります。
コーチングとは現代の他力の教え
イエス・キリストや親鸞が教えた絶対他力の教えは何故、権力者から弾圧されるのか。イエスは磔にされ、親鸞は僧籍を剥奪されて島流しに遭いました。それは他力の教えが他人の作った価値基準を無にするからです。簡単に言うと『俺が偉い』『これが大事だ』という考えが全て意味が無くなる。イエス・キリストは当時のユダヤ教会の価値基準を徹底的に批判したし、親鸞も、その師匠である法然も、当時の旧来の日本仏教やその権威を否定したのです。
南無阿弥陀仏と称えれば何もかも救われるのであれば、なぜ、勉強する必要があるのでしょうか。なぜ、修行する必要があるのか。なぜ、大名に忠誠を誓う必要があるのか。なぜ、年貢を納める必要があるのか。なぜ、親孝行する必要があるのか。なぜ、偉いお坊さんに葬式でお経を称えてもらう必要があるのか。何も無くなる。それらは全て人間が勝手に決めた価値基準で、そんな物は全く関係なく阿弥陀仏如来は全てを救うと誓ってる。これが本当なら比叡山の権威はどうなる?当時の大学の権威は?そして大名達の権威は?何も無くなるから攻撃されたのです。
しかも、いつの時代でも権力者の数より一般人の数の方が多い。現代でも、富の99%を1%の人達が握る、と言うように権力者の数は一般人より少ない。だからこの教えは恐れられるのです。仮に全ての人が南無阿弥陀仏を称えればいいだけじゃないか、年貢を納める必要もないし、お寺に寄付する必要もない、厳しい修行をする必要もなければ、大名に仕える必要もない。ただ、念仏を称えて、自分や家族達が食っていけるだけの生活をしよう。となったらどうなるでしょうか。修行をしたら救われる、と言っても誰も聞かない。なぜなら、彼らは全員既に救われていて、念仏を称えているだけで圧倒的に幸せだからです。
こんなことが実現してしまうと、権力者は大変です。彼らのためにご飯を作ってくれる人もいなくなる。彼らのためにお金を稼いできてくれる人もいなくなる。彼らのために命がけで守ってくれる武士もいなくなる。彼らのために奉仕してくれる存在が全て消え失せてしまうのです。
これを現代に当てはめるとどうなるでしょうか。資本主義に洗脳された人達が『お金なんて無意味じゃん?その為に命かけるって馬鹿馬鹿しい』となったら。東京大学の権威も消え失せる。誰も受験勉強しない。大企業に就職する、官僚になるという権威すら消え失せる。天皇に対しても、総理大臣に対する権威もない。
慎ましやかに、しかし、圧倒的に幸せを感じて生きる。軍事問題なんてどうでもいい。国際政治問題も知らない。原発事故や地震災害なども、念仏を称えながらやれる範囲で頑張って処理する。年収1億円なんてどうでも良いし、そんな物のために誰も頑張らない。LOUIS VUITTONやHERMESなんて誰も欲しがらない。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ああ、なんて今日も幸せだなあ、楽しいなあ、と感じる日々。
こんなことが実現してしまうと、金融資本を始め、権力者は凄く困る。だから、必死に、お金が大事だ!老後貧乏になるぞ!北朝鮮が攻めてくるぞ!などなど色々、あの手この手で『お金が大事だ』と洗脳してくる。お金が無いことは恥ずかしいことで、お金がある事がいいことだ。こういうことは苫米地さんの本に書いてあるのでふんふん、そうだね、知ってるよ、となるかも知れないけど、心から実感してる人はどれくらいいるのでしょう。
東京大学やハーバード大学を目指したり、ベンチャー企業として成功することを目指したり、官僚や大臣となる事を目指すくらいなら今から本気で浄土真宗にでも改宗した方がいいです(笑)
でも、この本は浄土真宗の布教本でもないし、私も浄土真宗のお坊さんでもない。正しいゴール設定の方法の一例として浄土真宗やイエスの教えなどを参考にして、絶対他力の教えをあげました。何故、それが参考になるのかというと、正しいゴール設定は下記の条件を含んでいる必要があるからです。
自由意思で主体的にゴール設定する
自分の本音に嘘をつかない
自分中心のWant toを捨てて世の中のためのゴールを掲げる
現状を超えたゴール設定
この条件が満たして、それに対してアファメーションを唱え臨場感を高めていったときに、心から、本当に心から『自分の設定したゴールに関係する事以外はどうでも良くなる』のです。いわば、自分のゴールが自分にとっての阿弥陀如来になった状態です。時間は未来から流れてくるのだから、どうあってもゴールに向かっていく、という事は今がどういう状況であれ、最高に素晴らしいことだ!と幸せになるのです。最初のうちは古い現状と新しい現状の認知不協和の状態でイライラしたり緊張したりするかもしれませんが、アファメーションで臨場感をゴールの方に持っていけば確実にそうなります。
心から『自分の設定したゴールに関係する事以外はどうでも良くなる』状態とは、親鸞がどれだけ厳しい目に遭っても、ただ、自分の設定したゴールのために布教し、90才の大往生を遂げたようなものです。12~13世紀の頃に島流しに遭う、というのは現代風に言えばエアコンも水道も電気もない山奥(それもスゴく暑いか寒いかのいずれか)に飛ばされて、ろくなご飯もないようなものです。その状況や色んな弾圧があったのに90才まで生きる。親鸞がいかにエネルギーに満ちあふれていたかが想像出来ます。しかも、親鸞が結婚したのは35才と言われています。当時の35才と言えば、現代の感覚で言うと50~60才。今から子供を作ろう、なんて普通の人は思いません。35才から親鸞は子供を4人作ったと言われています。2年に1人産んだとしたら最後の子供は43才で作ったことになります。日本の少子化には浄土真宗が効くかもしれません(笑)
親鸞が
本当はこんなはずではなかった・・・
比叡山に認められたい・・・
ああ、寒い、暑い、ひもじい・・・
などというストレスを感じていたらこんなに元気なはずがありません。親鸞にとって阿弥陀仏の誓いによって浄土に生まれるという現状を超えたゴールは心から、徹底的に確信に満ちあふれていたので常に幸せだったのでしょう。しかも、それを自分だけではなくて他人にも教える。広める。という抽象度の高いゴールだったため、自らのゴールから溢れんばかりのエネルギーを感じていたのでしょう。だからこそ、常にエネルギッシュに活動出来たのだと思います。
自分の設定したゴールに心から確信を持つとき、本当にそれ以外がどうでも良くなるのです。
お金が無い
家がない、家が小さい
恥ずかしい
怖い
辛い
何もかもどうでもよくなります。これらの感情が生まれる原因はあなたが受け入れてしまっている他人のゴール、他人の価値観から産まれるどうでもいいものです。この、どうでもよくなる、というのは新しい自分のゴールから見てどうでも良くなるという意味で、既存の他人のゴールに洗脳されている場合はもっとも重要なもの、として認識されてしまいます。恥ずかしいなんて嫌だ!だから全力で回避しよう!という感じです。
心から『自分の設定したゴールに関係する事以外はどうでも良くなる』と言う経験は私も沢山しています。例えば最初に就職した会社で、私は350万円の借金をして会社につぎ込み、さらに、売上を一番上げて会社を支えているにもかかわらず、売上を上げてないスタッフからいじめに遭いました。
しかし、わたしにとって心からどうでもいいことだったので、そのいじめは1年以上、当時の社長が気づくまで無視していました。無視していた、と言うか、意図的に無視するという次元ではなく、心からどうでも良かったのです。
私は高いゴールを掲げていましたし、社内の人から褒められること、嫌われること、その全てがどうでも良かったのです。私が興味があったのは高いゴールから見てビジネスマンとして成長することだけでした。真の意味で抽象度の高いビジネスマンは自分を嫌っている、いじめているという理由でクビにするでしょうか。それを決定するのは上司である社長です。そこにどうでも良い情動を貼り付けることなく、淡々と営業をして売上を上げる。それのほうが私のゴールから見て格好いい行動でした。
他にも、その会社を辞めてアニメ会社に転職したときも『営業職として活躍してる君が欲しい。うちには営業が必要なんだ』『給料は前の会社の半分くらいになるけど来て欲しい』と言われました。しかし、転職してみたら『営業はアニメ会社に必要ない』と社長から言われ『給料は半分と聞いていたのに7~8分の1』という驚きの状況です。今思えば、『営業職として活躍してる君が欲しい。うちには営業が必要なんだ』とは、活きの良い若者を自社に入れる口説き文句で本当に営業が欲しいわけではなかったのでしょう。更に『給料は前の会社の半分くらいになるけど来て欲しい』というのも、私の給料がまさか25~26才時点で年収1,000万を超えてるなんて思いもしなかったのです。これも普通ならあり得ない!と腐っても良い状況なのだと思いますが、私は給料いらないから辞めて新しい事をしよう、これも良い経験だ、程度にしか捉えませんでした。
『自分の設定したゴールに関係する事以外はどうでも良くなる』というのは体感を伴うもので、理屈ではありません。あなたはその境地に達しているでしょうか。ゴール設定する前から気になっていた他人の目線、恥ずかしさを気にしてませんか。お金が無いことや、目の前の仕事の辛さを未だに感じているならそれはあなたが古い現状に縛られている証拠です。私らしくない、と思ってゴールに向けて臨場感を高めましょう。
ただ、気をつけて欲しいことは『どうすればいいか』と考えないことです。新しいゴールを設定しているにも関わらず、前と同じ次元の問題が気になる。お金が無い、恥ずかしい、辛い、大変だ、と感じていると、どうすればこれをなんとかできるか、と考えてしまいます。しかし、どうすればいいか、と考えることは大抵解決出来ません。わからないから悩んでいるのであって、どうすればいいか、と悩んでいるという事はその問題よりもエフィカシーが低くなっている状態だからです。
売上が上がってない・・・どうすればいい
家賃や税金が払えない・・・どうすればいい
こうなっているときは全て解決出来ません。むしろ、解決しようとしてもがけばもがくほどに更に問題を大きくしてしまうでしょう。ルータイスも言っていますが、人間は自然なときに最もクリエイティビティを発揮する、と言っています。どうすればいい、なんて悩んでいるときは自然なときではありません。『人間は自然なときに最もクリエイティビティを発揮する』とはいちいち考えなくても人間は自然とあなたが受け入れてるゴールに向かう、とも言えます。苫米地さん風に言えば時間は未来から流れるので未来は勝手にやってくる。ただ、あなたがどんな未来・ゴールを受け入れてるかはあなた次第だ。と言うわけです。
それならば、あなたが悩むべき事は『現状の問題をどう解決するか』とか『どうすればゴールを達成出来るのか』という方法を悩むことではないのです。あなたが悩むべき事は徹底して正しくゴールを設定したか?そしてそちらに対して臨場感を持っているか、またもとうとしているか、という事なのです。
どうすれば年収が上がるか
どうすればモテるか
どうすれば成長するか
全部どうでもいい。どうすれば、と考えることは『現状を超えたゴールに臨場感を感じているか』それだけでいいのです。そしてそれは言語を超えた体感を伴うのですです。火に触って熱い時は、これを熱いのかな?といちいち悩む必要もないくらい熱い!!と感じるように、言語を超えて理解出来るものなのです。
最後に あなたの本はどこにありますか?
あなたの本はどこにありますか。人がリーダーを求めるときと言うのは決して良い状態ではありません。私もリーダーになりたいわけではありません。リーダーを求めたり、カリスマを求めたり、誰かに正解を求めたり・・・それらは全て良い状態ではありません。
つまり、コーチングを実践するなら、あなたのゴールを達成するための本を、誰かに求めるのではなく、あなたが書けるようにならないとおかしいのです。私はこの文章を含めて40万文字ほど文章を書きました。それは自分用でしたが、この文章はそれを他人用に編集した7〜8万文字ほどの文章です。
それをあなたも自分専用に自分で書く方が絶対にいいのです。その一冊は苫米地さんの著書よりもあなたのゴールに役立つはずです。当たり前ですが、あなたは苫米地さんではありません。そして苫米地さんもあなたではありません。あなたのゴールのことを一番詳しく知っているのはあなた自身です。だからこそ、自分で自分のゴールのためのコーチングの本を自分で書いた方がいいのです。
リーダーを求めるときは良い状態ではない、とはどういう時でしょうか。それはコーチング的な観点で言えばエフィカシーが低い状態です。自分の指導者を自分以外に求める状態は、ゴールを他人に預けている状態です。自分の設定したゴールのために知識を仕入れる、助けてもらうのは構いません。しかし、人生を導いてくれる指導者、仕事を導いてくれる指導者、恋愛や結婚で自分を導いてくれる人を求めるとき、あなたはあなたの人生を生きていません。そして私もそういう人になって欲しいからこの本を書いているわけではありません。
俺がリーダーだ!と思いたい人にも近づかない方が良いでしょう。その人もエフィカシーが低い状態だからです。本来リーダーとはなりたい!と思ってなるのではなく、勝手にこの人にリーダーになって欲しい、と祭り上げられるものだからです。俺が社長だ!俺がリーダーだ!と言うだけでは誰も着いてきませんよね。スピード印刷で名刺を作り、登記すれば誰でも数十万円で社長です。大学の学費、高校の学費よりも安い(笑)そんなものになんのありがたみもありません。更に言えばその程度で作れる社長の肩書きよりも下の部長とか、課長とかもっと無意味です。
いちいち『俺がリーダーだ!』なんて思わないとリーダーになれないと思ってる時点でエフィカシーが低いしゴールが低いのです。あなたはそんなことを考えなくてもちゃんとゴール設定すれば勝手にリーダーになっていくでしょう。そうじゃ無い人は、権力欲や支配欲を満たしたいだけで決して良い状態ではありません。
真のリーダーの態度とは歴史上の人物にも学ぶ事が出来ます。かつて法然が浄土宗を立ち上げて弟子達に教えていたときにこんなことがありました。歎異抄の中に
「法然上人がご在世の時に、お弟子が沢山おいでになった中でも、同じ信心を頂いた方が少なかったためであろう。親鸞とご同朋の方々との間で争論をしたことがあった」ということである。そのわけは、「善信(親鸞のこと)の信心も法然の聖人の信心も同じものである」と聖人が仰せられたとき、勢観房・念仏房などというご同朋達が案外なことに反対されて「どうして法然上人のご信心に善心房の信心が同じはずであるはずであろう」と言われたから、「法然上人のお知恵や学問の広さに対して、私が同じであるというのであれば、それこそ間違いであろうが、浄土に生まれることを信ずる心においては、まったく異なることはない。ただ一つである」と、お答えになったけれども、それでもなお、「どうしてそのようなわけがあろうか」と言う疑いや非難があったから、結局法然上人の前で相互の主張の是非を決定すればよいと言うことで、事の子細を申し上げたとき法然上人が仰せられるには、「源空(法然のこと)の信心も如来よりたまわった信心である。善心房の信心も如来よりお受け取りになった信心である。だから全く同じものである。源空と異なった信心をもっておられる人は、源空が行こうとする浄土へは、おそらくお行きになる事はありますまい」と仰せられたことであるから、これからすれば、この頃の、ひたすら念仏に励む人々の中にも、親鸞聖人のご信心と同じで無いこともあるだろうと、思われるのである。
という文章があります。法然は
『浄土教の教えを一般化し、より多くの人を救いたい』
という想いがありました。その教えの象徴として合ったのが阿弥陀仏でした。法然にとって一緒にいる仲間達は阿弥陀仏をゴールとして共有した仲間でした。そのゴールの臨場感を感じるための手段が南無阿弥陀仏という念仏で、今風に言うとアファメーションです。
親鸞は
『法然とゴールを共有し、アファメーションを称えている。その時感じる臨場感は法然と同じゴールを共有しているのだから法然と同じモノの筈だ』
という理論を一緒に学ぶ仲間達に主張しますが、ここで争論が勃発します。
親鸞以外の人達は
『なんて畏れ多いことを言うんだ。法然上人と私達が感じているものが同じ訳が無いだろう』
と言います。
この気持ちは非常によく分かります。法然が浄土宗を開いたのは43歳の時です。それまで法然は15~43歳までずっと勉強をしています。法然は比叡山で修行を勤めながら、学問にも励んでいました。28年の修行の間、普通は一生かかっても読み切れない、とてつもない沢山の量の一切経を5度も読みました。その結果、法然は「智慧第一の法然房」と呼ばれるようになったのです。
ちなみに当時の比叡山は今の東京大学みたいなものです。秀才、エリートの集まる所です。その秀才達が読み切れない一切経とはなんでしょうか。
仏教系出版社 大東出版社より
http://www.daitopb.co.jp/15issaikyo.html
漢文一切経は、インド・中国・日本の三国を通じて捧持・発展されたブッダの教えの一大宝蔵であり、それが過去の東洋文明に及ぼした影響の大きさは歴史の証明するところです。しかし漢文のままの経典は専門家においても難解難読の箇所が多く、ましてや一般の人々にあっては不可解・無縁なものとなりつつあります。したがって進歩した近代仏教学の上に誰にも理解できる日本語訳の完成が望まれてきました。このような声にこたえるために企画発行されたのがこの“国訳一切経”(こくやくいっさいきょう)です。
とあります。なんと、全255巻257冊で各A5判の大きさで平均400頁セット価格 2,260,980円です。約226万円とは、凄い本ですね。私もちゃんと読むのに1ヶ月はかかるかもしれません。現代の製本技術が発達した状態でこれだけの金額がするのですから、1000年ほど前は一体どれくらいの価値があったのでしょうか。2,000万円?2億円?もっとかもしれません。それを読むのを許されるだけでもエリートですが、それを5回も読破する。更にこれ以外のものも沢山読んでいたでしょう。今風に言えば速読多読です。いわば、東京大学の法学部の中でも歴史上まれに見る秀才!と称されたのが法然なのです。
その法然に対して親鸞は『法然とゴールを共有しているのだから俺も同じモノを見ている』と言うわけです。仲間達は『そんなばかな!畏れ多い!』と言うわけです。親鸞はそれに対して『法然上人と智慧が同じだ、というなら反論されるのも分かるが、法然上人とゴールを共有してるのだから見ているものは同じ筈だ』と言います。これはコーチング的に見ても親鸞が正しいのですが、どうしても納得出来ない親鸞以外の人達は法然に『じゃあ、どっちが正しいか法然上人に聞きに行こう!』と言います。その時の法然の対応が
「源空(法然のこと)の信心も如来よりたまわった信心である。善心房(親鸞)の信心も如来よりお受け取りになった信心である。だから全く同じものである。源空と異なった信心をもっておられる人は、源空が行こうとする浄土へは、おそらくお行きになる事はありますまい」
です。これはコーチング風に言えば
「源空(法然のこと)の臨場感もゴールよりたまわった臨場感である。善心房(親鸞)の臨場感もゴールよりお受け取りになった臨場感である。だから全く同じものである。源空と異なった臨場感をもっておられる人は、源空が行こうとする現状を超えたゴールへは、おそらくお行きになる事はありますまい」
という事です。法然と親鸞は『阿弥陀仏の誓いの力で皆を救う』というゴールを共有していましたが、それ以外の人達は『法然に褒められたい』『賢くなりたい』『法然のように知恵のもの第一という名声を手に入れたい』等々、別の抽象度の低いゴールを見ていたのでしょう。法然にとってゴール達成のこと以外は興味ありません。だから『俺のほうが賢い、俺のほうが偉い、親鸞が俺と同じ?おこがましいことを言うな!』なんて事も思いもしません。
これはコーチングを実践する人にも言えることではありませんか。苫米地さんに褒められたい、世間に評価されたい、ルータイスのように何かしたい、ビジネスマンとして成功したい・・・そんなことはどうでも良いのです。これは、尊敬されるな、お金を求めるな、と言う意味ではありません。お金や尊敬を手にしてもいい、ただし、見るべきはゴールだ、という事です。
あなたは高いゴールのために生きて、働き、学ぶのでしょうか。そういう人はリーダーを求めません。精神的安定も、経済的安定も求めません。頼りません。むしろ他人を助けます。
リーダーに心の安定を求め、リーダーにお金を頼る、そういう人は仏教風に言えば煩悩にまみれ、苦しみあがいている迷える人です。会社に心の安定を求め、会社にお金を頼る、でもいいです。
俺は公務員だからスゴい、俺は大企業だからスゴい、俺はベンチャーだからすごい、俺は部長だからスゴい、俺は課長だから偉い、全て滑稽です。心の安定を自分以外に求めています。公務員だから安心、大企業だから給料が高いも同じです。コーチだからスゴい、も同じです(笑)
私はこの文章を通じて自分の信者を増やしたいわけではありません。今風に言えばフォロワーやファンを増やしたいわけではないのです。私は仲間を増やしたいのです。みなさんの貴重な時間を使い、ゴールを共有し、達成していくためにこの文章を読んでいただき感謝します。
誰もがリーダーになるべきです。誰もが従うべきは自分のゴールであるべきです。そういう自立した人の集まりがこれからの社会であり、それが世界に広がることが良いことだと確信しています。
あなたの本はどこにあるか
あなたはこの文章を読むだけではなく、ゴールから見てあなたの本をあなたが書いてください。読者から著者へ。フォロワーからリーダーへ。依存から自立へ。それが世界中に広がるのが私には見えています。
清水 有高Yukou Shimizu
ビ・ハイア株式会社 代表取締役
一月万冊 清水有高(しみずゆうこう)滋賀県出身。元不登校児、母子家庭育ち。ビ・ハイア株式会社代表取締役。滋賀県立大学人間文化学部卒業。ベンチャー役員、上場企業役員などを経験しコーチ、投資家、経営者として活動中。東京大学を始め各種大学でも講演多数。コーチングと読書を経営に活かし営業利益1億円以上、自己資本比率70%の会社を経営。8年間でスタッフ1人あたりの営業利益を100倍以上にする。
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