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2016.05.20 FRI - 速読多読コーチング

コーチングで目標達成するために最低限読むべき本と読書姿勢について

コーチングと読書 ルータイスの視点に立つ

あなたはのお爺ちゃんは大物政治家でお父さんは大企業社長ですか?そうじゃないならアファメーションやコーチングの本が読めてないかもしれません。

え?どゆこと?!と思うかもしれません。

それをこれから書きます。と言っても4万文字近くあるので興味ある人だけ読んでください。

アファメーションを唱えても上手く行かない・・・目標達成出来てない人向けに書きました。そんな状態になっているなら、あなたが本を間違って読んでしまっているからです。

「ルータイスを理解してないか。アファメーションを理解できてないか。コーチングを理解できてないか」というギャップを感じてください。それがコーチングの正しい実践、目標達成、ゴールへの近道となります。

所で、

あなたのおじいさんは大物政治家ですか。

お父さんは大企業社長でしょうか。

家ではクオリティの高いオーディオ機器からクラシックが流れるのが当たり前

百科事典を始め沢山の本が並び、家族の周りは著名人や有力者で一杯・・・

そんな世界に生きてきましたか。

子供の頃から気が使えて、頭が良すぎて受験生時代に大学受験の講師をするのも当たり前。

大学卒業後は超大手財閥系企業に入り、そこでも活躍して自分で留学制度を作って留学して博士号まで取る。

そんな人生でしたか。ま、多少デフォルメしましたが、苫米地さんのことです(笑)

スゴいですよね。

もっとも、他人と比べて自分を考える必要はないです。

ルータイスも言っていますが、

客観性は否定的では無い、と。

ただ、受け止めましょう。

photo苫米地さんの本の中で出てくる車の話でGTRとFerrari以外がでたことはありますか。

たまに例としてロールスロイスが最高級車でベンツはそうじゃない、とか出てくるくらいです。

今にも壊れそうなおんぼろ車に乗っていました。買い換えるときは新車では無く、壊れかけのおんぼろ車からちょっとマシな中古車です。と言う話が書いてありましたか。書いてないですね。書いてあるのはルータイスの方です。

ダサい服を着て30過ぎても自分でネクタイがしめられず奥さんにやってもらっている。

短気で良く怒り、学校に教師として勤めていたけどフットボールコーチにしか興味が無いから生徒からはルータイス、お前は最悪の先生だ、と言われる始末。それがルータイスです。少なくとも子供の頃から上質なオーディオを聞いて育ちました・・・という感じはしませんね(笑)

IMG_0017何が言いたいかというと、あなたの人生はルータイスさんよりでしたか、苫米地さんよりでしたか、と言う話です。

著者は著者の視点に立って本を書いています。これを間違えると本から知識が入ってきません。

苫米地さんの『速読脳』『クロックサイクルの速め方』などにも書かれていますが、本とは著者の視点に立って読む、それが最も大切なのです。そうじゃないと本から知識は入ってきません。苫米地さんの本やルータイスの本を何十回自分の視点で読んでも知識は入ってきません。それが読書の基本です。

多くの人はコーチングの知識を本から仕入れてるはずです。ルータイスに直接教えてもらって、苫米地さんに出会い、何度も、何十回も話、その人となりも理解し、冗談を言い合う中になって・・・と言う人は少ないでしょう。当然の事ですが、ルータイスは死んで会おうにも会えません。本や動画で見るしかない。

苫米地さんも直接会おうとすると時間が限られていますし、セミナーやコーチング料は書籍の1000倍以上したりするので本で学ぶ方がお手軽でしょう。

あなたの人生が苫米地さんのようであれば本を読んでもスルスルと入ってくるかも知れません。ルータイスのようであればスルスルと入ってくるかも知れません。でも、多くの人はそうでは無いはずです。

ルータイスよりでも無く、苫米地さんよりでも無いでしょう。そもそもルータイスは敬虔なカトリック教徒です。

516yLTqx2nL新約聖書、ヨハネの福音書の『始めに言葉ありき』の世界にドップリつかって生きてきた人です。しかも英語を喋っています。コーチングを学んでいる中で英語がネイティブ言語で敬虔なカトリック教徒、と言う人はどれくらいいるのでしょうか。

殆どいないでしょう。苫米地さんは日本人ですが、苫米地さんのような人生を歩み、苫米地さんのようであればそもそもコーチングを勉強してないかもしれません。

つまり、書籍からコーチングを学ぶのであれば、自分の視点を外す、自我を変える、ルータイスの視点になって読む、苫米地さんの視点になって読む、と言う事をしない限り一切、と言っていいほど知識が入ってこないのです。

多くの人は自分の視点で本を読み、しかも数回だけ、下手をすると1回だけしか読んでないのにアファメーションやコーチングを理解したつもりになって効果が出ない・・・と悩んでいます。

アファメーションが目的的志向を働かせ、そして目的的志向のパワーは現状とゴールのギャップが遠ければ遠いほどいいのであれば、本を自分の視点で読んでいる時点で

『一切ギャップが生まれてない』

可能性だってあるのです。自分の視点で自分の好きな知識を手に入れているので、自分にとって都合がいい知識しか入ってきません。新しい知識が入ってこないと言うことは現状とのギャップが生まれない、と言う事なのでエネルギーも生まれず、違和感も何も発生しません。

特に、苫米地さんの本は日本で自己啓発本のようなマーケティングをされています。

不安が無くなる
悩みが無くなる
成功する・・・

と紹介されていたりします。経営者としてはすごく気持ちが分かります。だってこうした方が売れますからね!だからこの売り方は資本主義的には正義です。こういう売り方は私が出版社の大株主ならOKを出します!

7c65eb10苫米地さんの著書をお堅く売っても売れないのです。

でも、もし、本当にこのキャッチコピーだけしか興味が無い人がコーチングの教材や本を読むなら?どんな風に読むでしょうか。

自分の不安を消したい、悩みを消したい、成功したい・・・残念ながらそういう視点で読めば読むほど新しい知識が入ってこないので現状とゴールのギャップも生まれずエネルギーは一切出てきません。

本を読んでコーチングを学ぶ人はここを気をつけましょう。現状とゴールのギャップのエネルギーによって人は成長して行くなら、現状から少し離れて本を読まないとギャップを生むための知識、情報すら入ってこないのです。

私は自分にコーチングを実施し、1ヶ月に1,500~3,000冊の本を読むと言う事を実現させました。他にも自分の会社で年間数億円の稼ぎを産みつつも、時間は自由です。上場企業役員をお願いされてやったりもします。大学教授さんの著書を読んで、それについて教授と話をするのも楽しいです。大量の本を何度も読んだ結果、自分の視点で読んでいる場合と著者の視点に立って読む場合は入ってくる知識が全く違う!と実感させられています。

そのためには、まず、

苫米地さんとあなたのギャップを感じましょう。
ルータイスとあなたのギャップを感じましょう。

bagあなたが女性であればそもそも二人は男性です。英語はネイティブですか、日本語ですか、革パンはいてますか、痩せてますか、太ってますか、

好きなブランドはFerrariやLOUIS VUITTONですか。セブンイレブンのお弁当が好きですか、それともステーキが好きでしょうか。

食べる量はどうでしょうか。苫米地さんは少食ですが、ルータイスは・・・あの体型を見ればわかりますね!自分との違いを感じてください。

多くの人は苫米地さんの様な上流階級で育っていないでしょうし、苫米地さんほどIQも高くないでしょう。ルータイスのように牧場を持って大金持ちで養子が10人以上いる、と言うこともないでしょう。それと比べて惨めな気持ちになるのでは無く、ただ、違いを実感しましょう。その違いを感じるだけであなたは自我から離れています。

自分とは違う人生を歩んだ人が書いた本なんだ
と言う事を認識して読むだけでも違うでしょう。私は月1,500~3,000冊読書をしていますが、どれだけ沢山読んでも自分の視点で読んでは一切知識が入ってこない、と言う事を痛感しています。

例えば私は学生時代にベンチャーで働き始めましたが、営業の経験なんて全くありませんでした。社内研修も全くなく、オンザジョブトレーニングと言えば格好いいですが、仕事しながら覚えろ、と言うスタイルです。何が正しいのか、何をすればいいのかもわからない。

ただ、稼ぐぞ!という気合いとやりたいゴールだけがありました。なので営業の本や、当時の社長がオススメしてくれた本を読み、ドンドンそれを取り入れていきました。その結果、赤字だった会社は数年で盛り返し、私も月給100万以上貰えるようになったのです。

51FX0SCVW9L当時は苫米地さんの本が出ていませんでしたが、私が参考としたのは石原明さんの断る営業、竹田陽一さんのランチェスター戦略関係などを参考にしました。

私はそれを実践しただけでうまく行きました。しかし、多くの人に勧めてもうまく行きません。というか、そもそも本に書いてあることを実践しないし、読めていません。

学生でインターンしてた当時の私がビジネス書や経済書、哲学書を読む姿勢は学生のそれではありませんでした。なぜなら、学生の自分では成功できないと分かっていたので、自然とゴールを設定し、自我から離れ、新しい知識をどんどん取り入れていったのだと思います。

今の自分では解決できない問題があるから本を読むのですが、今の自分を納得させるために本を読んでしまってる人があまりにも多いです。

苫米地さんの速読脳175Pにも
つまり、5分で1冊読みました。しかし実際にあなたが読んだところはあなたが決めた重要な部分だけ。言葉を換えれば、あなたにとって都合のいい事実ばかりを拾い出したに過ぎないのです。これでは何冊本を読んでも一緒。読後の感想は「ほら、やっぱり自分は正しかった」または「この本は間違っている部分が多い」のどちらか二つでしかないのです。
とあります。コーチングを読書で学ぶ人はこの事実に気づくべきでしょう。

苫米地さんやルータイスのアファメーションを読んで

FullSizeRender 68「今まで知らないことばかり書いてある!なんと言うことだ!!!!!」
と衝撃を受けてないならあなたは今までの自我のまま読んだ事になります。

あなたが苫米地さんのような人で、ルータイスのような人で、お金も持っている人なら「ふんふん、なるほど~こうすればいいのか」程度の衝撃しか無いでしょう。読んで、衝撃を受けて気絶するくらいじゃないとおかしいのです。

もし、いい本だ!くらいの感想ならそれはおかしいと気づいてください。

本を読む多くの読者は苫米地さんやルータイスよりもコーチングについて知識が少ないはずです。にもかかわらず、衝撃を受けないと言うことは、知識が入ってきてないのです。あなたは現状を超えるためにコーチングの本を読んでいるかも知れませんが、その実、現状維持の罠にはまっているかもしれないのです。

これはキリストや釈迦の時代から続く難題です。イエス・キリストも新約聖書の中で例え話を何故多用するのか、について答えています。

412GX6T6Y9L新約聖書、マルコ福音書4章13節に
『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがないためである』
とあります。

神の愛を説いても神の愛が信じられない人にはそのまま伝えても納得できないので色んな言葉で語る必要がある、と言う事です。

イエス・キリストの教えは本来、神の愛は無限です、終わり。

でいいはずです。

釈迦の教えも『縁起』で終わり。

でも、それでは伝わりません。

コーチングも『現状を超えたゴール設定をすればいい』だけでいいはずです。

にもかかわらず、大量の本が出ています。イエス・キリストや釈迦の教えは数千年経って様々な人が膨大な数の書物を書き、実践し、そして未だに理解されていません。いや、理解されてないというか、理解したくない人の心に届いていません。セックスをしたくてたまらない人に煩悩は止めた方がいいよと言っても「嫌だ!」となります。

現状維持をしたい人に『現状を超えたゴール設定をすればいい』と言っても伝わりません。今の自分ではダメだからなんとかしたいと思い本を読み、コーチングを学んでいるはずなのに、現状を超えるなんて・・・という無意識があると現状を超えるための知識が入ってきません。

IMG_0023『現状を超えたゴール設定をすればいい』といっても、今の日本の現状に死ぬほどの絶望を感じることはできないでしょう。

福島原発の事故が起きたから敏感な人はそれを感じ始めています。私はあの地震が起きてから年に数回は宮城と福島を訪れるようにしていますが、あそこには絶望と死があります。

でも、殆どの人は死と絶望を感じません。日本は豊かなので『もっと豊かになれるなら嬉しいけどしんどいならいいや』と思ってしまうのです。現状維持でもOKと思ってしまいやすい日本にいる以上、現状を超えるぞ!とはなかなか思えないのでしょう。でも、日本は豊かだという認識自体が間違っているとしたら、どうでしょうか。もしかしたら、豊かだから大丈夫だよ、と思わされてるだけなのかもしれません。

IMG_0013 2一つ例え話をしましょう。もし、あなたの近所の家が大金持ちだとします。家には多くの宝石や現金があります。それはもう、とてつもない量です。1兆円なのか、1,000兆円なのか、わからないくらいあります。

その家には鍵も着いていなくて、住んでいる人はちょっと脳天気な人なので泥棒が入ってきても気づきません。お隣さんがいや~お金持ちですね~豊かですね~といつも言ってくれるので自分は豊かだ、このままでいい、と信じています。でも、そのお隣さんも泥棒です。そして鍵もかけず、盗まれていることすら気づかないので気づいたらその人は一文無しになり、騙されて借金まで背負い、死んでいきました。

あなたはそんなお金持ちがいたらどう思いますか。バカな奴、と思うかもしれませんが、それが今の日本人です。

バーゼル規制、TPP、消費税増税などなど、日本は豊かなのでどんどんかもられています。騙されています。あなたも日本は大丈夫と信じています。死ぬわけ無い、と信じています。私には今の日本の崩壊が見えます。崩壊の先の新しい世界も見えます。その為に目標設定し、行動しています。見えない人は現状維持なので崩壊が見えません。そして、現状維持はコーチングの本に書いてあるとおり、突然破綻します。

ルータイスや苫米地さんのアファメーションを読んで

「人生を揺るがすほどの衝撃」

を受けてないならそれは読み込みが足りません。読み込みが足らないと言っても自分の視点で1万回読んでもたりません。釈迦やキリストの教えは数千年にわたって数億、数十億、数百億回以上読み込まれていますが、未だに伝わっていません。衝撃を受けるためにはルータイスや苫米地さんの視点になって読むよう心がけてください。

51q+2bCkCrL苫米地さんの速読脳の176Pにも
著者の人格で重要度を決める
読書の神髄は、新しい知識に触れることであり、新しい考え方に触れること。それがあるからこそ、読書は刺激に満ちているのに、折角の読書が台無しです。これでは、自分で自分に対して偏向報道をしているようなもので、本を読めば読むほどIQが下がってしまうのです。
一方、著者の人格になる読み方なら全く別の結果になります。もちろん、RASは使用します。しかし、著者の人格で重要度を決めるわけですから、自分の人格で決めた重要度とは変わってきます。何が重要かが変われば、これまで読んだ本でも新たなものが見えてくるはずです。
とあります。

『本を読めば読むほどIQが下がってしまうのです』

とは何と恐ろしい事でしょうか。

コーチングの本を読めば読むほどゴール達成出来なくなる

と言う事なのです。

自分にとって都合のいい解釈を求めて自分の視点で読めば読むほどバカになると言うことです。実際、自己啓発本マニアのような人はいますが、啓発されるどころかバカになっています。そういう人は沢山います。

コーチでも、現状を超えるために学んだのに、結局不安と現状維持に支配されている人が沢山います。こういう恐ろしい事態を避けるためにも、著者の視点で読む、何度も読む、を実践しましょう。

photo03著者を知るためには著者のプロフィールにまず振れましょう。
ルータイスはAmazonによると

心理学者、米国自己啓発界、能力開発の世界的権威、コーチングの創始者。1936年アメリカ・ワシントン州生まれ。シアトル大学卒業後、ワシントン大学で教育学精神衛生科学の修士号を取得。シアトルの高校教師を経て、ダイアン夫人と共に、人間が成功するための心の仕組みを研究する。教育プログラムIIEを開発後、71年にTPI(The Pacific Institute)を設立。米国認知科学の最新の成果を盛り込んだ能力開発プログラム「PX2」を打ち出し、中国・アメリカのオリンピック委員会が導入を図るなど世界中で提供されている。

TPIJapanの公式ページによると
1935年、米国ワシント州シアトル生まれ。シアトル大学卒業後、ワシントン大学で精神保健科学の研究で教育学修士を取得。著書「可能性を引き出すスマート・トークと 結果を出すパーソナル・コーチング(Smart Talk for Achieving Your Potential and Personal Coaching for Results)」は、国際的に高く評価される。高校教師ならびにフットボール・コーチとしてキャリアをスタートさせ、 その後、人間が成功するための心の仕組みを研究し、コーチングのメソッドを確立。認知心理学や社会学習論の最新の研究を、誰もが理解し利用できる教授法として展開。個人と集団の可能性を最大限に引き出す卓越した国際的指導者として、 各界のリーダーやトップ・アスリートから衆望を集めた。2012年4月逝去。
です。

smarttalkSmart Talk for Achieving Your Potential and Personal Coaching for Results
は読んだ頃がありますか。Kindleで売っているので英語で読んでみてください。
苫米地英人版アファメーションにも書いてますが、ルータイスは敬虔なカトリック教徒です。あなたはキリスト教についてどれくらい知識がありますか。全くないならルータイスの視点でアファメーションを読むのは難しいでしょう。

最低限、旧約&新約聖書は買って読んだ方が良いです。『買って』読む、と言うのは何故かというと、敬虔なカトリック教徒が聖書を図書館から借りて読んでいるんで家にありません、等と言うことはあり得ないからです。

自分で買って、家に置いています。家族の分まで買っているかもしれません。友人の分まで買っているかもしれません。ビ・ハイアに買ってもらったので読みました、程度ではダメです。無論、読んだ分にはとてもいいことですが、それは『敬虔なカトリック教徒』の態度でしょうか。

ルータイスはことある毎に

言葉が人生を決定する

と伝えています。アファメーションは言葉で人生を操る方法と言えます。ルーは神の存在を信じていましたし、天国も信じていたのでしょう。苫米地さんがルータイスに「天国ってあるのかな」と聞かれたと本に書いてあります。あなたは神の存在を信じていますか、天国の存在を信じていますか、信じていないならルータイスの視点で読めていません。新約聖書にもあるように、

image初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
The same was in the beginning with God.
All things were made through him. Without him was not anything made that has been made.
です。

この世界観をルータイスは信じていました。信じていた、と言うよりこれがルータイスの世界なのです。宇宙の始めにあったのは言葉であり、言葉は神であり、神は言葉である。言葉こそが何者よりも偉大で、崇高で、全能で、全知である。その言葉によって全てのものができた。あなたはそう信じられますか。

全てが言葉です。物質すら、エネルギーすら、全てが言葉なのです。言葉が元となって出来ています。この文章も、宇宙の創成の頃からあったのです。ダイヤモンドも、富士山も、全てが言葉なのです。

苫米地さんの超情報場仮説風に言えば物理空間はより高い次元の情報空間の写像で、物理があるからそれに対応している名前や情報があるのでは無く、名前や情報の方が先である、という解釈になります。もっとも、それは苫米地さん風の解釈であり、ルータイスの世界ではありません。ルータイスとして、ルータイスのアファメーションの本を読まないとそのインパクトは伝わってこないのです。

71OnXclxhZLはじめに言葉ありき



南無阿弥陀仏

どちらのほうが日本人にはなじみがあるでしょうか。南無阿弥陀仏のほうがなじみがあるのではありませんか。

ルータイスが南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、仏様の慈悲は無限である。全ては縁起であり、自分の心が生み出している。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。と言っているでしょうか。言ってません。釈迦はむしろ言葉を否定しています。お経を唱えたりマントラをありがたがったりしても意味が無い、とまで言ってます。

アファメーションなんて意味ない、とすら言えるでしょう。無論、高い抽象度で捉えればアファメーションと仏教は親和性が出てきますが、そこまで高い抽象度で仏教を捉えている日本人は少ないでしょう。多くの日本人にとってはじめに言葉ありきよりも南無阿弥陀仏のほうがなじみがあります、と言う程度の認識ではアファメーションの理解を妨げるのです。

日本社会において

「はじめに言葉ありき」

はなじみがありません。

418ZCBD10PL法律という考え方、民主主義という考え方、資本主義という考え方、その全てが言葉によって作られています。そして、それらは明治以前は日本になじみの無い考えでした。著名な学者達もそれを指摘しています。法学者の川島武宜の日本人の法意識や、空気の研究で有名な山本七平、小室直樹さんも数々の本でそれを書いています。

苫米地さんも赤信号で車や歩行者が止まるのは道路交通法という言葉があるからだ、と書いています。歩行者がいて事故が起きると危ないから車を止める、と言う物理的な話であれば、歩行者がいない時、運転手はバンバン信号を無視しているはずです。

そうではありません。歩行者がいない時でも車は赤信号で止まります。歩行者がいない時に赤信号を無視して警察に捕まったとき『だって歩行者がいなかったからいいだろ。法律よりもそっちの方が優先だ』と言って認める社会でしょうか。そうではありませんよね。

しかし、はじめに言葉ありきが徹底されている西洋社会と日本ではこれに対するなじみが少ないのです。人間にとって神との契約である言葉、法律を破る!というほどのインパクトが日本人にはありません。言葉が絶対で、それを取り締まる警察官は代行者に過ぎません。でも、日本人にとっては法律よりも警察官の方が気になります。アメリカの文化人類学者であるルース・ベネディクト(コロンビア大学PhD)が菊と刀で語ったように恥の文化と罪の文化の違いとも言えます。

419ZWJYGHBL苫米地さんもアファメーションの中で『日本では明治維新以降先を急ぐように西洋文明を移入してきました。ほんの少し前の江戸時代には、法律を事細かく張り巡らせなくても社会を運営することが出来ていました。それが、明治維新を迎え、何事も法律に照らして判断する世の中に一足飛びで変わったのです。』と書いています。

また、法学者川島武宜さんも日本人の法意識の中で
『明治の憲法は76条、民法は1,046条、商法は689条、刑法は264条、民事訴訟法は805条、刑事訴訟法は334条から成り立っている。このような大法典の壮大な体系がわずかに10年足らずの間に出来たと言う事はまこと特筆すべき歴史的出来事であった』
と述べているのと同時に、西洋がこういった法律を何百年にもわたって文化と社会になじませてきたのに、日本は一気に10年で作り上げたから色んな所で法律よりも優先されている考え方がある。それが法律とぶつかって問題が起きている、と書いています。

憲法、法律は言葉としてかなり重要です。それよりも重要なのは聖書。神。神とは言葉です。その言葉が全て。そこから憲法や全ての物質や概念、思想さえ産まれている。そういう考え、文化で誕生したのがアファメーションであり、コーチングです。アファメーションを破ることは神との契約を破ること、くらいのインパクトがあなたにありますか。多くの人は無いでしょう。それであればルータイスが作り上げたコーチングを正しく理解し、実践してるとは言えないのです。

71hAanKBQSL明治維新後、日本は西洋化され、資本主義と民主主義が導入されましたが、本音と建て前で代表されるように思想的に二重統治の世界になっています。これはいわゆるマックス・ウェーバーがテンニスが指摘したようなゲマインシャフトとゲゼルシャフトよりも遙かに歪な世界です。

ゲマインシャフト(ドイツ語:Gemeinschaft):ドイツ語で「共同体」を意味する語に由来。地縁、血縁、友情などにより自然発生した有機的な社会集団の事で、ゲゼルシャフト(ドイツ語:Gesellschaft、機能体組織、利益社会)の対概念として提唱したもの。簡単に言うとゲマインシャフトでは人間関係が最重要視されるが、ゲゼルシャフトでは利益面や機能面が最重要視されます。

会社では利益が優先され、恋人、家族、友人では人間関係が優先される。なんだか当たり前のように感じますが、西洋社会では会社でも、家族でも、友人でも、恋人でも、基本的にはじめに言葉ありき・・・を共有しています。しかし、日本では会社でははじめに言葉ありき・・・で家族、友人、恋人では南無阿弥陀仏・・・なのです。宗派によって南無阿弥陀仏ではなく、南無妙法蓮華経かもしれせんし、般若心経かも知れませんが、会社ではキリスト教を信じて、家族友人恋人では仏教的価値観で生きる、なんてことは西洋ではありえません。西洋社会でそのようなことをするととてつもない変人、下手をすると危険人物扱いされます。

51NMPEAN39Lアファメーションを唱えるときはキリスト教的感覚で、いつもは日本仏教的感覚で生きる・・・その程度ではアファメーションが実践できてるわけが無いのです。

例えるなら、コンビニで本場長野県産のそば粉を使用したおそば、と言うのが売っていたとしましょう。それを買って、オフィスで食べたとします。あなたは『これで俺は長野の本物の蕎麦を食べた。美味しかった』と思いますか。ありえないでしょう。長野県に実際に行き、清流の流れている所に行き、そこで取れたてのそば粉を使った蕎麦を食べる。それでこそ本物の蕎麦にふれた、と言えませんか。

Mp3でモーツアルトを聴き、本物のモーツアルトにふれた、と言えますか。いません。やはりモーツアルトが25~35才まで過ごしたウィーンに行き、そこでプロのオーケストラが演奏する音楽をモーツアルトに関係あるホールで聞くほうがいでしょう。
アニメゲームマンガに例えるなら、ガンダムを1話だけ観て『ロボットアニメが分かった』と言っていたら。ぶっ飛ばしたくなりませんか。マンガ大好きだ!週刊誌月刊誌殆ど読んでる!と言う人が『俺もマンガ好きだよ。ワンピースっていいよね。チョッパー編で泣いたわ~』と言われるとぶっ飛ばしたくなりませんか。ロック好きの人が『俺もロック好き!ビートルズしか聴いてないけど』と言われたら??一月万冊の清水有高に対して『私も読書が好きです!小説しか読みませんけど、良く図書館で借りて月2冊読んでます』と言ってきたら・・・ちょっと違うだろ!それ!と思いませんか。

gbible2ルータイスのことを理解せずルータイスの視点で読まないアファメーションはその程度の理解だ、と言う事です。それではルータイスの視点に立つために何を学べばいいのでしょうか。一つは聖書を読むことでしょう。そして神の愛にふれ、幸福に包まれることです。

次に、西洋文化と日本文化の違いを知る事です。無理矢理西洋化された明治以降の日本と、日本古来の文化がない交ぜになった日本を理解することです。苫米地さんのブログにある『「空」を定義する ~現代分析哲学とメタ数理的アプローチ』というpdf文書にも
上座部仏教は、釈迦の悟りを「縁起」という概念で説明します。縁起を一言でいえば、「すべての存在は関係で成り立っている」ということです。縁起は、「関係が存在を生み出す」と見る概念であり、「存在が関係を生み出す」という西洋的な見方とは逆です。釈迦は、縁起の思想によって、ユダヤ教、キリスト教、バラモン教等の前提であった「存在があって関係が生まれる」という概念をひっくり返しました。

とあります。日本で様々な影響を与えた学者の小室直樹さんの宗教原論にも
51GGHAG6G6L仏教は釈迦の教えではなく、絶対的なのは法(ダルマ dhárma)、即ち道徳法則のようなものだけであり、これを悟ったものが仏となる。故に、仏が出現してもしなくても、法そのものは厳然としてあると考える。法がなにより第一で、仏はその次にくる、いわば「法前仏後」の構造を取っており、まず神が優先する「神前法後」の構造である啓典宗教とは根本的に違うことは、前章で説明した。だから神は存在しない、といえばキリスト教にならないが、仏教では仏は存在しない、と言ったところで何も困らない。
と書いてあります。

神=言葉であり、それが絶対である、という文化と全部は空、関係が存在を産み出すに過ぎない、という縁起は根本的に違うのです。はじめに言葉ありきをルータイス並みに信じましょう。言葉とは神なのです。言葉とは全てです。宇宙の全てです。宇宙の全てが言葉によって作られています。それを自由自在にあやつるのがアファメーションなのです。宇宙を操る技術なのですから、あなたが人間社会で実現したいゴールなんて簡単に実現できて当たり前です。

言葉の世界で大きなものは民主主義と資本主義の世界です。日本人は言葉になじみが無いので『自分たちは資本主義と民主主義の国に生きている』という自覚がありません。それでも、資本主義の成功であるお金は凄く欲しいし、民主主義の成功の象徴である人気者に憧れます。なぜ、民主主義と資本主義なのか、それもわからず、その原理も分からず、ただ、お金が欲しい、有名になりたいと望んでいるのです。これはアファメーションを理解しないまま、コーチングを理解しないまま、ゴール達成したい、出来ない・・・と悩んでいるのと凄く構造が似ています。

何故この状況に置かれてるのか分からないまま、何故かあれが欲しいこれが欲しいと思わされ、そして手に入れられないと悩む。ルータイルの目的的志向の原則にも書いてありますが、

何を何故、欲しいのかそれを考えることに時間を使いましょう。
どうすれば手に入るか、それは今考えなくても良いことなのです。
何を何故、を強く考えれば方法は見えてきます。

であれば、なぜ、日本に住み、働き、成功したいのでしょうか。なぜ、資本主義の成功の象徴であるお金が欲しいのでしょうか。なぜ、民主主義の国で成功をしたいのでしょうか。何故と何を追求せずに目的的志向が働く事はありません。

殆どの日本人は

『何を何故ほしいのか』

と言う事を考えることをおろそかにしています。

『どうすれば、手に入るか?』

ばかりを考えることになれすぎています。

どうすれば、内定が貰えるか。
どうすれば、お金が手に入るか。
どうすれば、受験に合格するか。
どうすれば、出世できるか。
どうすれば、恋人が出来るか・・・等々

どうすれば、だらけです。あなたが就職活動中に『どうすれば、内定が貰えるか』と考えていたと思いますが、何故、就職をしたいのか、について考えたことはありますか。

何をするために、何故就職をしたいのか、を考えたことはありますか。履歴書に書く志望動機などではありません。あなた自身の内面から出てくる答えを求める、魂への問いかけです。

どうすれば、大学に合格できるか、高校に合格できるか、を考えたことはあると思いますが、何故、そもそも進学がしたいのか、を本気で考えたことはありますか。受験勉強を1日4時間していたなら、なぜ、勉強がしたいのか、については何時間考えていたでしょうか。

日本は資本主義化・民主主義化を無理矢理された国です。国民自らが手にしたものではありません。だから、何故、お金が欲しいのか、仕事で成功したいのか、などには特に答えられないのです。でも、世間では成功せよ、仕事をしろ、お金持ちになった方が良い、と言われているのでそれを実現させる手段としてコーチングやアファメーションに手を出しても、結局理解が浅すぎて効果が出ません。

IMG_0008苫米地英人版アファメーションP46にも書いてあります。
このように、キリスト教になじみの薄い日本においても、「はじめに言葉ありき」が浸透し、現代に至っています。しかも、現代の世界はその殆どの国が資本主義によって経済を営んでいます。資本主義はそもそもプロテスタントが成功させ、世界に広めた経済システムです。そこでは、企業は利益を上げることが必要とされ、利益とは何かと言うことが、企業会計原則によって定義されています。
この資本主義の経済システムに、現代ではイギリスの支配を受けていたバラモン教国のインドはもとより、中東のイスラム教国や、改革開放を進める中国、社会主義の旗を降ろしたロシアをはじめとする旧ソ連諸国が参加しています。つまり、「はじめは言葉ありき」というキリスト教的世界観が、既に地球規模で共通の社会システムになっているわけです。
ルータイスの生きていたアメリカはキリスト教の国です。その文化の中で生きたルータイスの視点に近づくことは日本人にとってかなり難しい事でしょう。しかし、不可能ではありません。それこそ、コーチングの極意です。ゴール設定をすれば認識し、近づくことが出来ます。多くの人はルータイスと日本人がどれくらいかけ離れているものなのかを理解していないため、日本文化のままアファメーションの表層だけを読んで理解したつもりになっています。むしろ、どれだけ自分からかけ離れていて、理解が出来ていないか、と言うことがわかれば分かるほどエネルギーが出ます。この章の最初に書きましたが

url「ルータイスを理解してないか。アファメーションを理解できてないか。コーチングを理解できてないか」

というギャップを感じてください。それがコーチングの正しい実践、目標達成、ゴールへの近道となります。

なのです。私はコーチの資格を持っていますが、コーチからよくどうすればいいか、という相談を受けます。この前もコーチやコーチを目指す人達の前で講演に呼ばれ話す機会がありました。その時に『コーチングを実践してうまくいかない、と悩んでいる人達は、そもそも、なぜコーチングをしたいのか、コーチングで何を達成したいのか、キチンと自分に問いかけてください。コーチングは自主的で自己責任で行うものです。あなたは何故、コーチングを選んだのでしょうか。受験勉強や就職活動と同じように、目標は与えられるもので、その中の最適な手段としてコーチングというものがいいようだ、と選んでませんか。それではコーチと言えません。』といいました。多くの人は目標を自分で設定できていないので、エネルギーが出ないのです。

その中で、私は

51hGu60KnrL『コーチングを実践する、コーチになるのにあたってオススメの本はありますか』

と聞かれました。そこで私が進めたのは旧約聖書、新約聖書、仏教の経典、カルヴァン、マックスウェーバー、その他日本人社会学者などをあげました。アファメーションを深く理解するためには聖書は不可欠です。

しかし、聖書だけを読んだとしても旧約聖書やイエス・キリストの教えがどのように現代の資本主義にまで連なっているか、はよくわかりません。なので、マックス・ウェーバーやジャン・カルヴァンの本を参考として読むといいと伝えました。その次に、日本という国の文化がどこから来ているのか、を考えるためにも仏教を勉強した方がいいし、日本の社会学者や海外の社会学者が日本文化について、日本社会について書いていることを沢山読みましょう。その上で、海外のニュース、日本のニュースも沢山読み、視点の違いを常に意識しましょう。

日本と西洋の違いは何か、アメリカ人だったらどう考えるか、日本人だった場合は?と考え続けましょう。その上で、アファメーションを読むときはルータイスの視点になって読みましょう。

苫米地さんの速読脳の182Pに

41V41XWD64Lたまには著者のインタビュー記事を読むのもいいかもしれません。口語の言い回しや発言の癖を掴むのも著者化に近づきます。ホームページをチェックするのもいいでしょう。著者に関する情報を多く仕入れて、著者が何を重要視しているのかを探っていくことで、著者の人格へと近づいていくのです。そして、著者のバーチャルな人格化に成功したとき、あなたは「著者の視点で見た世界」を手に入れることが出来るのです。
それはとても刺激的な世界です。例えば、アダム・スミスの国富論を読んで、アダム・スミスのバーチャル化に成功すれば、スミスの視点で現代を見ることがだって可能となるでしょう。そして「自分だったら今、国富論をこういう風に書くだろう」と考える。本を読んで著者の人格を掴み、その人格のままに現代社会を眺めれば、言葉は自然に溢れ出てくるはずなのです。
これが本当の意味での「本を読んで知識を得た」ということです。
と書いてあります。であれば、ルータイスのバーチャル化に成功したらどうなるでしょうか。ルータイスの視点で自分を見ることが出って可能になるでしょう。自分自身の問題をコーチングのクライアントとして捉え、ルータイスならこうするな、ということがわかるようになります。そうすればコーチングの実践としてはこれ以上に完璧なモノは無い、と言うくらい完璧になるでしょう。どうすればルーになれるのかな、ルーだったらどう答えるかな、と考える暇も無く、自然と言葉が出てきます。それが本当の意味で本を読んで知識を得た、と言う事です。

そうすると全てのコーチはコーチとして失業するかも知れませんね。全人類がルータイス並にセルフコーチングが出来る世界です。コーチは不要となります。しかし、それこそがルータイスが望んでいた世界でしょう。なぜそれがルータイスの望みと分かるか、それは簡単です。ルータイス版のアファメーションの最後の416~417Pに書かれています。
少し前、私は二人の人物が遠くを歩いているポスターを見かけました。そこには、こんな言葉が書かれていました。「私の後ろを歩かないでください、私はあなたを指導しているのでは無いのだから。私の前を歩かないでください、私はあなたに従いたいのでは無いのだから。私の隣を歩いてください。ただ、私の友人になってください」。私が言いたいことも、これと同じです。私についてきて欲しいとは思っていません。もちろん、あなたについていきたいとも思っていません。ダイアンと私は、あなたが影響力を身につけ、私達と共に歩き、友人になって欲しいと願っています。
lou_photoと。ルーの視点に立つなら、アファメーションを『私を助けてくれる教えがある本だ』『私より優れてる人が書いた成功方法だ』と思って読むことは無いでしょう。自分の視点から離れることにより、はじめてあなたはアファメーション、ルーの考えを理解できることになるのです。

この章では、「ルータイスを理解してないか。アファメーションを理解できてないか。コーチングを理解できてないか」ということを書きました。日本人とルータイスとの文化的、宗教的、思想的な違いは相当開きがあります。その開きを認識すればするほどエネルギーが出て、ルータイスに近づくでしょう。どうかこの章を読んでルータイスとの開きに絶望してください。

ルータイスとの開き、というとルータイス個人のように感じるかも知れませんが、それは抽象度の低い話です。ルータイスはアメリカ人で、キリスト教を信じています。キリスト教を信じているアメリカ人が日本人とどういう違いがあるのか、どれくらい差があるのか我々は肌感覚で知る事はありません。

そこには思想の違いから文化の違いまで圧倒的な違いがあります。ルータイス個人よりも、アメリカ人、キリスト教徒、の方が抽象度が高い考えです。あなた一人よりも、日本人全体の方が抽象度が高い考えです。

なので、まずアメリカと日本の違い、キリスト教を信じているアメリカ人と日本人の宗教観を意識しましょう。その次に、アメリカ人の法意識と日本人の法意識を比べるのです。

これは、高校時代留学していた私の会社の副社長の話ですが、留学する前にまず、読むように、少なくとも持って行くように、と言われたのが聖書でした。何故これがいるのだろう、と不思議に思ったそうですが、彼女は留学先の高校で『あなたの聖書のお気に入りの部分は何?』と同級生に聞かれてビックリしたそうです。

テキサスの田舎の高校でしたが、それ故素朴な信仰心が強くあったのでしょう。更に、留学のホームスティ先から彼女は聖書をプレゼントされたそうです。そのエピソードを聞くだけでも日本とアメリカの違いを感じませんか。

41hr6DP3PKLアメリカだけではなく、他の海外の国の人が書いた日本文化の本を読むのも大切です。オイゲン・ヘリゲルと言う人を知っていますか。(Eugen Herrigel、1884年3月20日 – 1955年4月18日)は、ドイツの哲学者。

海外では日本文化の紹介者で、弓と禅という本を書いた人です。ドイツ人の哲学者で大正時代、日本の大学に招かれて講義をしていた人です。

この人は日本文化を学ぶために弓術を学びます。そこで西洋のアーチェリーと日本の弓の違いに戸惑いを覚えつつ、最終的には弓術5段の資格をもらいます。

この本はiPhoneを作ったスティーブ・ジョブズの愛読書、として日本に紹介されています。この本を読んでみると、弓・アーチェリーと簡単に訳していますが、その背景に文化的思想的な違いがスゴくある、と言う事を痛感させられます。

514F5S2BF1L他にもニコライやルイス・フロイスなどもお奨めです。ポルトガル人やロシア人ですが、彼らも日本にキリスト教を伝えるためにやってきています。

その彼らが観た日本文化について書かれている本があるのでそれを読むのはとてもいいでしょう。他にも日本人ですが、東京芸術大学の正津率に貢献した岡倉天心の本もオススメです。

彼は非常に英語が堪能で『The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan』 1903年 ジョン・マレー書店(ロンドン)『東洋の理想』『The Awakening of Japan』 1904年 センチュリー社(ニューヨーク)及びジョン・マレー社(ロンドン)『日本の目覚め』『THE BOOK OF TEA』 1906年 フォックス・ダフィールド社(ニューヨーク)という本を英語で出版しています。
『THE BOOK OF TEA』などは日本の茶の湯を海外向けに紹介した本です。つまり、日本人自身が英語で書いた、海外への日本文化紹介の本です。

511JH8R1Z9L英語で読むのがベストですが、上記の本は翻訳本もかかなり出ているのでまずはそれらを読みましょう。学者の本を沢山出しましたが、自分の好みの分野の本を読むのも面白いでしょう。

私は建築が好きなので海外の建築家が日本で活躍した話などが書かれている本を読んだりするのは好きです。旧帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの本なども面白いですね。とにかく沢山読むことで抽象度の高い違いを分かるようになります。そういう視点は無意識レベルであなたのコンフォートゾーンと抽象度を高めます。これはビジネス書や自己啓発書ばかりを読んでいても絶対にたどり着けない境地です。

今あげた本が少しハードルが高いなら、おなじ20~21世紀を生きている日本人の本を読みましょう。川島武宜、大塚久雄、丸山眞男、森嶋通夫、小室直樹、山本七平このあたりの有名所を読み、彼らが紹介しているトマスホッブスのリヴァイアサン、ジョン・ロックの統治二論、マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、アダム・スミスの国富論、カール・マルクスの資本論くらいは読みましょう。

あまりオススメの本をあげていくと『どの本を読めばいいですか』『どういう本を読めばもっと理解が深まりますか』という質問がバンバン来そうですが、それはコーチング的に間違っています。何と何故を追求しましょう、どうすれば、どのようにすれば、は後から見えてくるのです。

どうすればいい、どの本を読めばいい、と言う時点でエフィカシーが下がっています。

あなたはどの本を読めば以下もう分かっているあなたのゴールから観て最適な本が分かっているはずです。ゴールへの臨場感を高めてください。苫米地さんもオススメの本をあげてくれるでしょうし、私もオススメの本をこうやって書くことは出来ます。しかし、それは苫米地さんのゴールの重要性で決定されたRASによるお奨めですし、私のお奨めも私のゴール達成、ビ・ハイアのゴール達成からみていいな、と言う本をピックアップしているのに過ぎません。

あなたは何故、本を読むのですか。自分で決めた自分のゴールのための筈です。そうであれば今あげた本は最低限読み、自分のゴールにとって必要な本も読んでください。それがコーチングと読書の実践です。強いて、最低限の数字をあげるとすれば1日3時間以上、月100冊以上の読書です。そしてそれを3年以上続けた方がいいでしょう。

それらを読み、思考を深めていくとコーチングに対する認識も変わります。例えば、ルータイスの言葉で有名な

インベントオンザウェイ、やり方を発明、発見する

と言うモノがあります。これはゴールを定めればその方法は見てくる、と言う意味です。なるほど、ゴールへの臨場感を高めればエフィカシーが上がりスコトーマが外れるのか~程度の理解ではありませんか。それは間違いではありませんが、ルータイスの視点ではありません。

ルータイス版のアファメーションの225Pに
必要が生じてはじめて認識が出来る。目標設定は必要を産むことに他ならない。神学の世界では、これを信仰と呼びます。それは証拠が無くても信じられる気持ちです。多くの人が信仰を持たないのは、信仰を築くために証拠を必要とするからです。彼らは「私に見せてみろ、証明してみろ。そうすれば目標を設定しよう」と言っています。それも一つの方法ですが、目標を定めさえすれば、認識することが出来ます。それが信仰の実践です。目標が先にあり、認識が後からついてくるのです。
と書かれています。

神の存在を信じることが出来れば、神への道が開かれる、神の存在を実感できる証拠が見えてくるだろう。信じないものにはいくら説明しても見えない。ということです。

これは新約聖書マルコ福音書4章13節に
『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがないためである』
と書かれている事と同じです。

ゴールを信じる、神の存在と同じくらい信じる、敬虔なキリスト教徒並に信じる。そうすると神の存在の証拠が見えてくるように、ゴール達成の方法が見えてきます。そもそも、日本人には神を信じる、という信仰の感覚自体がよく分からないのですがその文化と思想の壁を乗り越えたときあなたのゴール達成能力は飛躍的に上昇しているでしょう。

敬虔なキリスト教徒並に・・・とサラッと書きましたが、それは聖痕現象がでるのと同じくらいの信仰心が必要でしょう。聖痕現象とはイエス・キリストの事を信じている信者が、イエス・キリストの事を思うあまりイエス・キリストが傷ついたとされる手足などから物理的外傷が無いにもかかわらず血が出てくる、という現象です。

脳科学的にこれは自分の中の臨場感が高まったため、リアリティが移行して血が出た、と言えます。実際、目隠しをして全く熱くない鉄棒を焼けた断つ棒だ、と言って目隠しをした人にあてると火傷が出来た、と言う話もあります。これはオカルトでもなく科学で証明できる話です。

それくらい、強烈にゴールのことを思っているでしょうか。南無阿弥陀仏・・・お天道様が見てるよ、そんなのは恥ずかしいよ、という文化で育った我々は神が常に見ている、という感覚がありません。例えばゴールを達成出来なかったときの感情を思い出してください。

私は年収を10倍にするぞ!と決めた・・・けど出来なかった。
私は愛される人物になる!と決めた・・・けど出来なかった。
私は10キロ痩せるぞ!と決めた・・・けど出来なかった。

など、なんでもいいのですが、この時に沸き上がってくる自分の感情です。

例えば年収を10倍にするぞ!と言ったのに、会社で全く売上が上がらなかったとしましょう。

その時沸き上がってくるのは罪の意識でしょうか、それとも恥ずかしい、という感情でしょうか。

敬虔なキリスト教徒が自ら信仰を否定するような行為をした際、まず恐れるのは神の罰です。自分は罪を犯してしまった、という感覚でしょう。我々日本人はゴールから見て自分らしくない、私らしくない、と言う行動を取ってしまったとき、悔しい、恥ずかしい、不満だ、どうしよう、不安だ、という感情はあるでしょうが、神に罰を受ける、という罪の意識を感じないでしょう。ルータイスが敬虔なキリスト教徒なのであれば自らのゴールに背く行動、考えをしてしまった際に感じるのは恥ずかしいよりも罪の意識でしょう。日本人が言う私らしくないというのと、ルータイスが言う私らしくない、というセルフトークに乗っている情動とイメージは違うのです。

そういう視点で見ると色々と新しい事が見えてきます。ルータイス版のアファメーションの244Pに
目標をアファメーションの言葉にすること自体は、道徳的でも非道徳的でもありません。道徳を超越しているか中立的かのどちらかです。それは、変化のための正しいイメージを作り出すための道具にすぎません。
と書いてあります。これの文章を読んで不思議に思いませんでしたか。『目標をアファメーションの言葉にすること自体は、道徳的でも非道徳的でもありません』と書いてありますが、そもそも、私達は目標設定をしてアファメーションを書いたときに、これは道徳的か、非道徳的か、と悩むでしょうか。なぜ、悩む必要があるのでしょうか。日本人にとっての道徳的と敬虔なキリスト教徒としての道徳的は違います。これは、アファメーションを書いても神に罰せられることは無い、という意味です。なぜ、こんなことを考える必要があるのでしょうか。

他にも286Pには
創造力
強い内面が構築されると、実現力が出てきます。物事が変えられることが分かってくると、自分お力で何かを創造できることも分かってきます。これは、神に取って代わるという話ではなく、神との共同責任についての話です。人間は神に似せて創造されたという話は正しいと思います。神が創造力のある存在なら、あなたも私も創造力のある存在の筈です。創造力を持つからこそ、人間はよりよい通信手段、よりよい高速道路、よりよい医療を構築してきました。
と書いてあります。

私達日本人がアファメーションを唱えエフィカシーをあげゴール達成能力を高める際に『これは、神に取って代わるという話ではなく、神との共同責任についての話です。人間は神に似せて創造されたという話は正しいと思います。神が創造力のある存在なら、あなたも私も創造力のある存在の筈です』と言われる必要がありますか。あなたが実現力、創造力を高めるのは神に取って代わるのでは無いのですよ、と納得する必要があるでしょうか。

はじめに言葉ありきの世界観ならば、言葉とは神であり、全てがそれでできあがっています。神は万物の創造主です。God is the creator of all nature.  ならば自ら創造力を持つと言うことは神の力を持つと言うことであり、そんな畏れ多い!とビビるアメリカ人がいてもおかしくありません。このアファメーションはルータイスのコーチングを広めるための本なので、そんなことないですよ、怖がらなくても言い、アファメーションを実践しても神の教えに背くことにはならないのです、と伝える必要があったのです。
その為、ルータイスはアファメーションの第一章の最初の方、39Pにわざわざ、
41br2Xesg6Lアイザック・ニュートンを思い出して下さい。ニュートンは神は完全な世界を創造したければも、たった一つ「人間」だけは例外だったと考えていました。人間は基本的に罪深い存在だと見なされていました。いつも善なるものを破壊しようとしてきたからです。その背景にはこんな考えがあります。
「もし神が完全な世界を創造したのなら、何故人間はあらゆる想像力と創造力を用いて、それを変えようとするのか。それでは物事を混乱させることになる」
皆さんの中にも、同じように感じている両親に育てられ、その影響を受けている方がいるでしょう。
~中略~
その200年後、哲学者で数学者のアルフレッドノースホワイトヘッドは、流動的でダイナミックな世界について語りました。彼は、人間が神と共に創造する世界を思い描いてたのです。ホワイトヘッドにとって、創造とは人間の命と同じように進化するプロセスでした。どちらも固定されることなく、立ち止まりもしません。常に動いています。 皆さんが私と同じようにその考えを共有したとすれば「私はのんびりとくつろいで、神やら運命やら自然界やら権力者やらが、私の人生を導いてくれるのを待つことにするよ」と言う人達をどう思うでしょうか。彼らはどんな人生を送るのでしょうか?
41ahCru+vbL._SY373_BO1,204,203,200_と書いてあります。神が創造した完全な世界を人間は混乱させてはならない、とそもそも我々日本人は思うのでしょうか。思わないでしょう。しかし、アファメーションをアメリカで広げ、西洋全体で広げ行くためにはこの文章が必要だったのです。こういう文章が必要だと分かるだけでも、ルータイスの視点と自分の違い、アメリカと日本の違いが分かってくると思います。

270Pにルータイスは
「実行を伴わない計画は自分に対する不正」です。自分に不正を働く人は沢山います。自己啓発の講座に参加しては、「よし、あの講座に行ってきた」と満足し、文字を追っただけなのに「この本を読んだ」などと考えるわけです。なんという時間の浪費でしょう。
と書いています。ここで使われている不正、とはなんでしょうか。ここでも、日本人の考える不正、とルータイスの考える不正は違います。不正がinjusticeなら、その反対は正義 justiceでしょう。

アメリカの正義、日本の正義、中国の正義、イスラムの正義、が違うようにアメリカの不正、日本の不正、中国の不正、イスラムの不正もまた違うでしょう。あなたはルータイスの言う「不正」を感じる事が出来るでしょうか。ゴールを設定し、アファメーションを唱えているにもかかわらず、自分らしくないことをしてしまった。その時に、私は自分に不正を働いた!私らしくない!と感じられるでしょうか。

日本人はどうしても、神に見られている、と言う感覚を持てないので、誰も見てなければずるをしても良い、と思いがちなのかも知れません。じゃあ、日本人はアファメーションを実行できないのか、と言うとそうではありません。高い抽象思考をすればそれは十分可能です。

実は、読書を実践できているか、というのは神が常に見ている、くらいの感覚を伴います。書いてあることをキチンと飲み込み、実践できているか、と言うのは神が常に見ている、という位の状態になるのです。ルータイスの視点、神を信じる、信じないは少し横に置いておき、神を信じている人と神を信じていない人は何が違うのでしょうか。それは脳内のブリーフシステムの違いと言えますし、内部表現の違いと言えるでしょう。

例えば、キリスト教徒全てが誰も見てなくても常に信仰心溢れた存在で、隣人愛が実践できて、神の前に出ても恥ずかしくない行動が出来ているか、そんなことはありません。教会で神父が聖書を片手に教えを説いているときは敬虔な気持ちになれるけども、誰も見てないところでは不正を働いてしまう、そういうことはあるでしょう。しかし、誰も見てないところでも善き人で居続けることが可能な人もいます。このブリーフシステムの違いは何なのでしょうか。

例えば目覚まし時計が無くても遅刻しない人がいます。逆に、目覚まし時計を何個置いても遅刻しがちな人がいます。このブリーフシステムの違いはなんでしょうか。更に言うと、目覚ましを置いても起きることが出来ず、誰かに起こしてもらわないと起きれず、誰かに見張ってもらわないと二度寝してしまう人もいます。

それは抽象度の違い、IQの違いと言えます。私の会社であれば早朝から読書をしようというルールがあります。キリスト教であれば様々な神の教えがあります。それと目覚まし時計や目の前にいる神父はどちらのほうが抽象度が高いでしょうか。

いうまでもなく、物理的存在では無く情報的な存在であるルールや教えの方です。抽象度が高く、IQが高い人はより抽象的な存在に臨場感を感じる事が出来ます。そして、それの持つパワーは物理的な目覚まし時計が発する音声よりも強力なパワーを持っています。

それ故、抽象度が高い人はルールに臨場感を感じ、その通り動くことが出来るのです。誰かに起こしてもらわないと起きれない、ルールが守れない、と言う人は自分が受け入れてルールを再点検する方が良いでしょう。あなたが無意識の内に受け入れてるゴールはあなたが守ろうとしているルールよりも抽象度の低いものの可能性の方が高いです。

会社には様々なルールがあります。朝から読書、月100冊以上の読書、というものから会社自体を規定する法律などもあります。会計、経理、総務、さまざまなルールがあります。会社のゴールも情報で抽象度が物理よりも非常高いです。逆に、抽象度が低いものにしか臨場感を感じられない人と言うのはどういう状態でしょうか。

朝起きる、と言うルールよりも遅刻したことで叱られたり怒鳴られたり、自分が辛い、嫌だというものに臨場感を感じる人です。

売上を上げることにより、お客さんが喜び、会社としての価値が向上し、業界が発展し、資本主義の中で自分がどのように機能してるか・・・ということを感じられない抽象度が低い人は、営業成績が上がったことで自分が褒められる、嬉しい、財布の中身、ボーナスが増える、くらいしか興味の無い人です。

そういう人は自分が金になる、と感じられる、自分にとって得である、と感じられる事でしか動けないので結局自分の欲求すら満たせません。

読書をして、新しい考え方を手に入れる、と言う事は「自分とは別の存在が常に自分を見ている」くらいの感覚を伴います。

51b9JRAUETL例えば年収を上げたい人にお勧めの断る営業という営業本がありますが、これを実践するのは高いエフィカシーが必要です。また、実践をしなくても誰が怒るわけでもなく、著者が見張ってるわけでもありません。この本は自分のセルフイメージをあげ、エフィカシーをあげ、新しいコンフォートゾーンを手に入れ、その新しい自分に見合ったお客と付き合おう、それ以外は自分らしくないから断ろう、という本です。

営業というイメージに体しての考え方を捉え直すための本です。勿論、あなたがそれを実践しなくても誰も叱りません。しかし、あなたがWant toで自己責任でその考えを手に入れたのなら、その新しい知識らしくない行動に対して「これをやらなくても誰も叱らない、怒らない、けど・・・なんだか気持ち悪い」と感じるでしょう。

私が学生時代には無いけど手に入れたブリーフシステム、著者の視点、新しい知識は沢山あります。例えばとある自己啓発本にはキチンと掃除をしなさい、と書かれていました。なので私は営業先のトイレも全て掃除したり、公衆便所やコンビニのトイレでも自分が使ったら全てちゃんと掃除をしていました。しかも、その本には素手で掃除をしなさい、と書いていました。

更に言うと、その本にはいちいち、掃除してることを自慢するな、周りに言うな、と書いてあったので褒められる事も無いのです。物凄く汚いトイレがあったりします。やらなくても誰も怒りません。それでも私がやり続けていたのは新しい知識が抽象度の高いレベルでブリーフシステムに組み込またので、やろうとしない場合

「なんだかよくない気がする」
「やらないとダメな気がする」

と気持ち悪くなったからです。その内その新しい知識、本の考え方がしっくりくると「キチンと掃除をしよう!やってて楽しいな」という完全なWant toに変わり、著者の視点を手に入れ、自由にその行動を選べるようになるのです。ちなみに今はトイレ掃除はやめました。懐かしい話です(笑)

面倒くさいな、やりたくないな、でも、やらないとダメな気がするな、やらないのは良くない気がする・・・と言うのはコンフォーゾーンの移行期で、認知不協和の時です。その時に、自分がどっちの考え、セルフトークをWant toで選択したいのか、それをしっかり考えて行けば、自然と新しい知識は血肉となって行くでしょう。

ルータイスが作ったコーチング、ルータイスが書き上げたアファメーションという本をしっかり読むためには確かに色々なハードルがありますが、それでも我々は乗り越えていくことが出来ます。

むしろ、ルータイスとの違いが分かれば分かるほどエネルギーが出ますし、分からない方が逆におそろしいのです。ソクラテスも言っていますが、無知の知です。知らないと言うことさえわからないので対策のしようが無いのです。そういう意味では、こんなにも知らないことがあった、こんなにも分かっていなかった、と言うことがわかれば分かるほどいいのです。

高い抽象度で理解が出来れば、例え神を信じていなくても、アファメーションを読み、効果を出すことは出来るでしょう。その為にも、日本とアメリカの違いなど、文化、哲学、思想について学ぶ事は抽象度を上げることになるので皆さんのゴール達成に自動的に近づきます。

苫米地さんのアファメーションにも書いてありますが、キリスト教的世界観で作られているのが民主主義で、資本主義という経済システムです。私達がそのシステムの中で生きるのならそのシステムへの理解が欠かせません。全体像が分からない、システムが理解できないけど、その中で成功したい、というのは歪な考えです。例えばサッカーのルールを知らないけども、サッカーで高得点を出したい、と言うようなものです。それは不可能なのです。

現代日本がどれくらい資本主義を理解できていないか、民主主義を理解できていないか、は忠臣蔵や水戸黄門、暴れん坊将軍、遠山の金さんなどの時代劇が人気なのを見ていたらよく分かります。なぜ日本では未だに時代劇が人気なのでしょうか。

41M6hQYfDeLもし、大好きな1万円札に書かれている福沢諭吉が忠臣蔵の赤穂浪士を批判していたらどう思いますか。

福澤諭吉はその有名な学問のすゝめで

『文明国は私裁を厳禁す・赤穂浪士不議論』

の辺りで忠臣蔵を批判しています。赤穂浪士の行ったことはリンチです。有名な話ですが、あれは要するに国の判断に納得がいかない!俺たちが成敗してやる!という話です。文明国であればどれだけ個人が納得いかなくてもルールには従うべきです。仮にそれに納得がいかなければ自らルールを変えるべきです。それが出来ない、あるいはやろうとしたけど出来なかった、だからルールはそのままだけど、ぶっ殺してやる、というのは文明人のやることでは無い、と言う批判です。

事件の発端は元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ・赤穂浪士達の主人)が、江戸城松之大廊下で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかったからです。(斬りかかった理由は不明でドラマ等では、吉良の要求した賄賂の拒否やそれを発端とした吉良による嫌がらせが遺恨の原因として描かれる)江戸城でこのようなことが起きたのですから、現代に例えるなら国会議員が、いきなり主義主張の違う国会議員を切りつけるようなものです。

515f5qzA+4L斬りつけた浅野内匠頭は即日切腹が言いつけられ、浅野が藩主を務める赤穂藩もお取り潰し、赤穂城も幕府に明け渡さねばならない事が決まります。それに対し吉良は何のお咎めない。この頃の「喧嘩両成敗」の原則に従えば、両方罰せられることになりますが、斬りりつけられた側の吉良が抜刀しなかったためこの事件は「喧嘩」として扱われず、吉良にはおとがめ無し。この判断に赤穂浪士達は納得がいかず、事件をおこします。

赤穂浪士不義論で福澤諭吉は浅野内匠頭と吉良上野介は両方裁かれるべきでこれは不正裁判かもしれない。それでも、暴力に訴えてはいけない、と書いています。
浅野家の家来ども、この裁判を不正なりと思はば、何がゆゑにこれを政府へ訴えざるや。47士の面々申し合はせて、おのおのその筋に由り、法に従ひて政府に訴へ出なば、もとより暴政府のことゆゑ、最初はその訴訟を取り上げず、あるいはその人を捕へてこれを殺すこともあるべしといへども、たとひ一人は殺さるるもこれを恐れず、また代はりて訴へ出て、随って殺され随って訴へ、47人の家来、理を訴へて命を失ひ尽くすに至らば、いかなる悪政府にても、つひには必ずその理に伏し、上野介へも系を加へて裁判を正しうすることあるべし。かくありてこそはじめて真の義士とも称すべきはずなるに、かつてこの理を知らず、身は国民の地位にいながら、国法の重きを顧みずして、みだりに上野介を殺したるは、国民の職分を誤り、政府の権を犯して、私に人の罪を裁決したるものといふべし。
福澤諭吉 学問のすゝめ 第六編より
51EMm7slJuLムカついた、ゆるせない、だからルールを破る!というのは抽象度の低い考えであり、それは文明国では無い、ということです。

未だに日本では忠臣蔵や時代劇が大人気です。三権分立が正しいのなら、司法行政立法を無視している赤穂浪士、水戸黄門、遠山の金さん、暴れん坊将軍、大岡越前などは全て「民主主義、資本主義では無かった昔の出来事。ファンタジーの一種」と捉えるべきでしょう。しかし、未だにあれは現代日本人の心を掴んでいます。福澤諭吉の視点になって現代の世の中を見てみましょう。それも一つ、抽象度を上げることになるでしょう。

福沢諭吉は当時の裁判が不正裁判だと批判していますし、当時の幕府を悪政府、暴政府と批判しています。それでも、ルールに則って行動することが大事なのだ、暴力はダメ、ルール違反はダメ、文字を守りましょう、抽象度高くしましょう、ということを説いているのです。また、

同じ学問のすゝめ第六編に

61yaJpqacxL『役人を恐れず、法を恐れよ』

とも書いています。このページの中で立ち小便をすることは違法だ。国民は全員この法律を貴びまもるべきだが、それをせずただ、邏卒(この頃の巡査、警察官の名称)を恐れるばかりと言っています。

日暮れに隠れてこの法律を破って立ち小便をしてそれを邏卒に見られ、罪に伏し罰を受けたとしても、破った本人は法律を破ってしまった・・・だから罰を受けるのだ、という感じではなく、ただ恐ろしい邏卒に運悪く出会ってしまった・・・と思うだろう。これは実に嘆かわしい。と書いているのですが、これは目の前の警官という物理的存在ではなく、法律という高い抽象度の理解が足らない、実感が無い、と言う事を嘆いているのです。

これは仕事でも言えることではありませんか。

『社長を恐れず、ルールを恐れよ』

と実践できてる人はどれくらいいますか。

会社のルールを守れなかったとき、社長が怒る、上司が怒る、のではなくゴール、ビジョン、戦略から見て定められた抽象度の高いルールが破られた!という感覚、どちらの方が強いでしょうか。抽象度の高いルール、考えと、自分の都合、体調、目の前の上司、同僚、どちらのほうが臨場感が高いでしょうか。より、抽象度が高い法に臨場感を感じる方がパワーが出ます。

福沢諭吉が150年以上前から嘆いていたように、日本人はどれくらい資本主義、民主主義を理解しているでしょうか。資本主義、民主主義を理解することはキリスト教世界観を理解することで、ルータイスへの理解に必ず繋がります。

41Kto+kZEKLキリスト教と資本主義というと有名なマックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神があげられますが、彼の言う資本主義の精神とは簡単に言うと『①労働そのものを救済とする②目的合理性③利潤の正当化』です。

①労働そのものを救済とするとは、報酬や昇進のために働くのではなく、労働その物が喜びになる事、仕事をすることそのものが自己目的化することです。
②目的合理性とは、当時、呪術、魔術、迷信がはびこっていたけども、そういうものは合理的では無い。合理的により多くの仕事が出来るように、仕事自体が目的なのだから、その仕事を更に効率的に合理的にやろう、と言う考え方です。
③利潤の正当化とは、お金は稼いでいい、貯めて良い、という考えです。

この説明を読んで、なるほど、と思った人はマックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を本当の意味で理解した、と言えません。

確かに、これだけでもコーチング的に納得できることです。報酬や昇進という結果ではなく、仕事という行為その物がWant toであり、そのために合理的に思考し、行動し、しかも、その結果得るであろうお金をもらうことに対して何の後ろめたさも無いのです。お金が欲しい!仕事が楽しい!その為に効率的に動き、合理的に考える!確かに資本主義が発達しそうですし、その中でも成功しそうです。

しかし、次のことを考えてください。

①労働そのものを救済とする・・・なぜ、労働そのものを救済として、喜びとして、自己目的化する必要があったのでしょうか。
②目的合理性・・・なぜ、その救済を更に追求していく必要があったのでしょうか。
③利潤の正当化・・・なぜ、利潤を追求することが正当化されたのでしょうか。

この、何故、に答えることは、コーチング的に言えばどんなゴールを持っているのか、という問いかけになります。

日本人でコーチングがうまく行ってない、経済的にも成功してないコーチがいるのは、無意識レベルでこれを理解し、体感していないからです。簡単に言うと③の利潤の正当化、お金が欲しい!お金を稼ぐことはいいことだ、と思えている人がいないのです。

そういうと、多くの人はそんなことはない!お金が欲しい!と言うでしょう。では、なぜ、お金が欲しいのですか、と聞くと色々理由が出てきます。多くの人は生活費が欲しいから、と言うのが理由なのですが、そうじゃ無い人もいるでしょう。それでも、その人は達成出来ていません。それはなぜか。

それは、資本主義を発達させた人々が、利潤を正当化させたのは

『神に救われるため』

だったからです。お金が欲しいから、ではないのです。労働そのものを救済とすると言う考えも、何故、救済とするのかというとそれが神に救われる、という確信に繋がるからだったからです。そうすると、神に救われるための労働なのですから誰に見られてなくてもド真剣に効率的に合理的に仕事がうまく行くように生産性を発揮します。

また、ここで神が出てきました。しかし、これは重要なポイントです。マックス・ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の中の『出来高賃金の問題』で、経営者が労働者に沢山仕事をしてもらおうと思い、出来高賃金を導入すると、逆に仕事量が減り、生産性が減る、という事例を紹介しています。
現代の経営者が「自社の」労働者に出来るだけ多く労働をさせるため、即ち労働の「集約性」を高めるために使ってきた技術的な方法の一つに、出来高制の賃金がある
~中略~
しかしここで奇妙な問題が発生した。出来高賃金率を増大させても、期待したように一定期間内の労働の量が増大するのではなく、かえって低下するという現象が顕著だったのである。
と書いてあります。

マックス・ウェーバーの本の事例は古く、そして通貨単価もマルクなのでわかりにくいので、ここでは日本円にして事例を書いてみたいと思います。

1つの製品を作ったら100円の報酬で働いている人が1時間10個作って1日10時間働く必要があったとします。

1個100円
1時間10個
1日10時間働く

なので

100円×1時間10個×10時間=1万円の報酬

です。

彼の生活には1万円必要だったのです。この人は1ヶ月の間に25日間働き、25万円の報酬をもらっているとします。家賃や食費等を考えるとそれくらい必要だったのです。

しかし、社長からするともっと仕事をして欲しい、その方が売上が上がる。そこで社長は報酬を1個あたり100円から125円に引き上げます。そうすればみんなもっと給料が欲しいだろうし、沢山製造をしてくれるのでは?という事です。

しかし、実際には今まで10時間働いていたのに、8時間に減りました。8時間で80個作って1万円しかもらいませんでした。10時間で12,500円ですらなく、25%も増えたなら12時間働くぞ!と言う人も殆どいなかったのです。

ee03f9ce8c6ed03950e6aeb24b439676と言う話です。マックス・ウェーバーはこれを77~78ページで書いています。(日経BP版プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神より)ウェーバーは
聖書の言葉を借りれば、それで「満ち足りることを知る」のである。労働者が関心を持ったのは、報酬を増大させることではなく、仕事の量を減らすことだったのである。労働者はできる限り多く働けば、一日あたりで幾ら稼げるか、と自問したのではなく「これまでの賃金を手にするためには、そして日々の伝統的な必要を満たすためには、一体どれほど働かなければならないか」これは「伝統主義」と呼ばれるべき生活態度の一例である。
人は「産まれながらにして」金のために働くのではないし、出来るだけ多くの金を稼ぐために働くのでも無い。ただ生きることを、しかもそれまで慣れてきた方法で生きることを望むのであり、それに必要なだけを稼ぐのである。近代の資本主義が、労働の集約制を高めることで、人間の労働の「生産性」を向上させようとしたとき、この資本主義以前の経済活動を貫くこうした基本動機が立ちはだかって、いたるところで限りなく頑強に抵抗したのだった。
と書いてあります。この話はコーチング的に見れば当然の話です。

コーチング的な言葉を借りれば、

それで「今までのコンフォートゾーンを満たせると知る」のである。労働者が関心を持ったのは、現状を超えて報酬を増大させることではなく、現状通りの報酬をもらうために仕事の量のゴールを減らすことだったのである。労働者はできる限り多く働けば、一日あたりで更に多くゴールから見て幾ら稼げるか、と自問したのではなく「これまでのコンフォートゾーンを手にするためには、一体どれくらい労働すればいいか」これは「現状維持」と呼ばれるべきマインドの一例である。人は「産まれながらにして」金のために働くのではないし、出来るだけ多くの金を稼ぐために働くのでも無い。ただ生きることを、しかもそれまで慣れてきた方法で生きることを望むのであり、それに必要なだけを稼ぐのである。現代の資本主義が、労働者のマインドとコンフォートゾーンを高めることで、人間の労働の「生産性」を向上させようとしたとき、この現状維持の経済活動を貫くこうしたコンフォートゾーンが立ちはだかって、いたるところで限りなく頑強に現状維持したのだった。

ということでしょう。

人は無意識の内に受け入れているゴール以上に動こうとしません。例えどれだけ好条件でもそれを無視します。ウェーバーの語る労働者にとって重要だったのは、今まで通り暮らすことであり、それで神に救われている、と言う感覚が手に入ることでした。

ご飯を食べ、家族を食べさせ、そして神に祈る。それで充分だったのです。この人々のコンフォートゾーンを変えない限り、どれだけ高賃金にしても働くエネルギーがわいてきません。

では、なぜ、それなのにもかかわらず、労働者の態度が一変し、生産性が上がり、資本主義が発達したのでしょうか。それはコーチング的に言えばゴールが変わったからです。ウェーバー風に言えばエートス、基本動機が変わった、と言う事です。

資本主義が発達する以前の中世では神に救われることと労働は別のものでした。実際、キリスト教では金儲けを悪としています。金儲けがダメなら、人間は必要最低限の労働しかやらないはずです。

それを

John_Calvin_by_Holbein『神に救われているかどうかは人間にはどうか分からない。それは死ぬまで分からない。最後の審判がある時までわからない。しかし、神に救われるような人間なら不正は働かないし、勤勉に働くはずだ』

と言うものに変えたのです。これは物凄く省略して説明しています。実際にここを書くと長くなるので割愛しますが、理解したい場合は聖書、ジャン・カルヴァンのキリスト教綱要やマックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義、その他小室直樹等々等々・・・を読んでみてください。

『神に救われているかどうかは人間にはどうか分からない。それは死ぬまで分からない。最後の審判がある時までわからない。しかし、神に救われるような人間なら不正は働かないし、勤勉に働くはずだ』

ということは勤勉に働くとどうなるでしょうか。簡単です。お金が貯まります。最初からお金を目的にして働くのは罪だだが、結果的にお金が増えてしまったなら構わない、と言う風にしました。

コーチング的に言えばゴールが変わった、と言う事です。神に救われてるかどうか、地獄に落ちるか天国に行くかは、生きてる間は分からない。だけど、天国に行くような人ならしっかり働くよね、と言う事です。

これは恐ろしい事です。生きてる間は一切安心できないのです。コーチング的に言えば常に認知不協和、創造的不協和の状態が続きます。私はこんなに素晴らしく働いている!・・・でも救われているかどうか分からない・・・もっと素晴らしく働こう!働きたい!天国への道だ!!!・・・けど分からない・・・よし!もっと働きたい!!こんな感じでしょうか。

それでも人間の脳は神や信仰を本気で信じていると前頭前野眼窩内側部が発火して気持ちよくなってしまいます。苫米地さんの本にも書いてありますが、本気で神を信じると自爆テロなどの行為がへっちゃらになってしまいます。死への恐怖が無くなるのです。

更にいえば超気持ちいいのです。私は神に救われている!という圧倒的な幸福感を感じながら仕事するのです。目の前の仕事が神に救われるというゴールから見たWant toになるのですから生産性も高まります。

しかも、圧倒的に現状を超えたゴールです。なんせ、1兆円稼いでも1,000兆円稼いでも、1,000京円稼いでもゴールは達成出来ません。死んでも分からない、生きてる間は分からない、最後の審判の時にはじめて分かる、ですから。

神のために働き、労働を行い、社会や公共の福祉、国家のために働いた結果、お金が入ってくる。よりよいサービスを提供し、付加価値を生み、沢山の売上を上げて利益を得る。それの何が悪いのか。沢山働き、よりよいサービスを提供したのは神への奉仕である、言わば沢山稼いだお金、利潤は、良質な商品やサービスを社会に提供したという「隣人愛」の結果で、その労働が神に救済するものとしてお眼鏡に叶った証拠で、救済を確信させる証だ!と言う事です。

単にお金が欲しい、有名になりたい、出世したい、程度の欲求ではこのエネルギーには勝てません。あなたが資本主義で成功するためには「神に認められる!」並か、それ以上の抽象度の高いゴールが必要不可欠となります。

いくらお金を儲けてもリタイアなど考えません。のんびり・・・も考えません。ひたすら働きます。無論、その中には労働時間を減らして家族愛の実践や協会の寄付、地域社会の貢献などもあるでしょうが、その全てが神に救われる証拠として働いているのです。

マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の413Pに
経済秩序と労働
こうした態度が中世の考え方と異なるのは明かである。トマス・アクイナスもこの「働きたくないものは食べてはならない」というパウロの命令に注釈を加えている。しかし、彼は単に、労働は各人の生活と社会の全体を維持するために必要な自然目的に基づいたものであると語っているだけである。この目的が存在しない場合には、この命令はもはや妥当しなくなる。だからこの命令が当てはまるのは人類に対してであり、個人に対してではない。働かなくても財産だけで生活できる人には、この命令は適用されない。
と書いています。

d0151247_0294222トマス・アクイナスは日本人にはなじみが無いかも知れませんが、キリスト教社会では相当な大物だと理解しておいてください。トマス・アクィナス(13世紀)はイタリアの神学者、哲学者。シチリア王国出身。ドミニコ会士。カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の33人の教会博士のうちの1人です。有名な本は神学大全で私の書斎にもあります。

聖人は聖母マリアやローマ教皇等キリスト教で相当重要視されていないと与えられません。マザーテレサですら聖人認定未だされていません。そんなトマス・アクィナスが『人類全体の社会が維持できるなら働かない人がいてもいい』と認めたのです。

要するに、飢えてる人がいなければ金持ちは働かず、貯金で食べてもいいよ、と言う考えです。

それがトマス・アクィナスから約3~4世紀ほど経たころ、リチャード・バクスター牧師やジャン・カルヴァンという神学者になると一変します。マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の413Pに
バクスターの場合には、労働の倫理的な義務をこのような形(トマス・アクィナス的な考え)でごまかすことはないだけではなく、財産を持つ富裕な人でも、この働けという無条件の命令から逃れることは出来ないという原則を極めて強調している。財産を持つ人も、働かずに食べてはならない、それは財産があれば生きるための必要を満たすために労働する必要は無いとしても、働けという神の命令には、貧者と同じように従わなければならないからである。全ての人に、誰彼と差別泣く、天職として一つの職業が与えられているのであって、各人は自分の天職を見いだして、働かなければならないのである。
と書いていたり403Pにバクスター牧師の言葉として
問いー私は自分の救いのことだけ考えられるように、この世のことは全て放棄してはならないのですか?
答えー霊的な事柄を不必要に妨げるような全ての余分な世俗的な配慮や営みを放棄しても構いません。しかし公共の福祉に役立つようなことは、それが身体的な仕事であるか精神的な仕事であるかを問わず、どれも放棄してはなりません。各人は教会や国家の一員として、教会や国家の善のために、それぞれの持ち場で最善を尽くす必要があるのです。これを無視して「私は祈り、冥想する」などというのは、召使いがあなたのもっとも大切な仕事を放棄して、もっと軽い、楽な仕事をやろうとするのと同じ事なのです。紙はあなたに何らかの方法で日々の糧のために働く事を命じておられるのであって、雄蜂のように、他人の汗によって暮らすようには命じておられないのです。
等を紹介しています。

コーチング風に言えば例え充分食べていける貯蓄があっても、ゴールのために働かないのは駄目だ!

とでも言いましょうか。

資本主義の精神とは神に救われることをゴールにして、その手段としてWant toで働く事を選ぶ、事とも言えるでしょう。日々の糧を得られたら、生活がそれなりに出来るなら働かない、という精神を徹底的に糾弾しました。おそらく、国家規模を超えてヨーロッパ、アメリカ全体でキリスト教のゴールが変わっていったのでしょう。それを誰かが仕掛けたのか、自然発生的に起きていったのか、それはわかりません。

しかし、いずれにせよ、我々はそういう世界観に生きているのです。キリスト教の世界観によって作られた資本主義を正しく理解するためにはお金の動きを見るだけではなく、宗教の歴史、考え方まで見ることが必要になります。日本に何故民主主義が根付かないのか、資本主義が正しく機能しないのか、様々な視点で述べている日本人社会学者の小室直樹さんも憲法原論の中で
日本人がいつまで経っても、ヨーロッパ文明を理解できないのは、キリスト教の存在をあまりに軽視してるからです。日本人は皆表面的に欧米を眺めて、それで分かった気になっています。
~中略~
確かに現代では欧米人も昔ほど信仰熱心ではありません。日曜日毎に教会に行く人は少なくなりました。しかし、彼らのエートス(ブリーフシステムと言ってもいい)行動原理が完全に宗教離れしているかと言えば、それは違います。彼らが先祖から受け継いできたエートスを作ったのは、他ならぬキリスト教であり、聖書です。彼らが意識するしないは別としては、聖書は今でも彼らのエートスの中に「生きて」いるのです。
と書いてあります。

519TF6VSKVLコーチング、ルータイスを理解するためにはキリスト教を理解し方が良いですし、それは資本主義、民主主義の全体像を掴む抽象度の高い思考でもあります。

この資本主義以前の人類の労働のあり方は、日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり(シエスタ等)、日が沈むと仕事を終えるというようなものだった。つまり、実質的な労働時間は短く、おおらかなものだった、と言われています。江戸時代のお侍さんの労働時間なんて10時~14時までと言う話もあるくらいです。むしろ、今のように電気も水道も整備されていない時代ですから夜になれば働こうにも働けなかったでしょう。天候にも左右されていたはずです。現代になると長時間働くのが当たり前、になっていますが、それは人類の長い歴史から見ると実は珍しい考え、新しい考えなのかもしれません。

いずれにせよ、おおらかかもしれないが、伝統的、中世的な働き方は近代、現代に続く資本主義的働き方によって駆逐されました。我々が生きているのもそういう世界です。

低いゴール、低い抽象度のエネルギーはあっという間に駆逐されていきます。マックス・ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理と資本主義の中で
『中国の高官、古代ローマの貴族、近代の大地主の貪欲さときたら、比較しようもないほどの大きいものである。彼らの金銭欲は激しく、そして厚かましい。しかし、こういう所では資本主義は育たなかった』
と書いています。これはコーチング的に言うと納得できる考え方です。

お金が欲しい、楽をしたい、豊かになって自由な時間が欲しい、というゴールの高さでは、神に救われるために働く!というゴールには勝てないのです。ルータイスの作り上げたコーチングの考え、アファメーションの思想の中には確実にキリスト教、そして神への信仰が入っています。

あなたのゴールは神の救済レベル並みに高いものでしょうか、隣人愛を実践する!というくらい抽象度の高いものでしょうか、あなたのゴールへの臨場感は神への信仰並みに強烈な、強く求めるものでしょうか、そうでなければアファメーションはききません。この文章の最初を思い出してください。

いかに「ルータイスを理解してないか。アファメーションを理解できてないか。コーチングを理解できてないか」というギャップを感じてください。それがコーチングの正しい実践、目標達成、ゴールへの近道となります。

なので、自分の理解が出来てないことが分かれば分かるほど、ゴールへのエネルギーは出て、抽象度も上がっていくでしょう。

この文章ではコーチングを正しく理解するために、最低限どれくらいの知識が必要か、と言う事を書いていきました。

正直、これだけでは足らないくらいです。多くの人はコーチングを正しく理解してないという事すら分かっていません。ソクラテス風に言えば無知の知です。苫米地さん風に言えば抽象度が低いのでスコトーマが出来てしまっています。ルータイスと自分の視点を埋めるためにも大量の知識を仕入れ、思考し、差を埋めていきましょう。そうすることによってあなたのコーチング能力、ゴール達成能力も自然と上がっていきます。
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清水 有高Yukou Shimizu

ビ・ハイア株式会社 代表取締役

一月万冊 清水有高(しみずゆうこう)滋賀県出身。元不登校児、母子家庭育ち。ビ・ハイア株式会社代表取締役。滋賀県立大学人間文化学部卒業。ベンチャー役員、上場企業役員などを経験しコーチ、投資家、経営者として活動中。東京大学を始め各種大学でも講演多数。コーチングと読書を経営に活かし営業利益1億円以上、自己資本比率70%の会社を経営。8年間でスタッフ1人あたりの営業利益を100倍以上にする。

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