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2016.05.04 WED - 読書ブログ

母娘 虐待 母を許せないまま大人になってしまった娘へ『母を許せない娘、娘を愛せない母』

母と娘のありふれた関係


一月万冊の大山です。最近、母娘の親子関係に関する本を読んでいて感じたことがあります。それは、親子関係の本は大きく分けて2つ。1つ目は母と娘の関係性を研究し、まとめてどのように対応していったら良いか提示しているノウハウ本。2つ目は母と娘の間で実際に起きた出来事を現場カウンセラー目線で紹介する実録本です。母親に対して「虐待だ」という自覚があり、解決に向けての方法論を知りたいという場合は前者のようなノウハウ本をお勧めしますが、母親が怒るのは「自分が悪かった」と思ってしまいがちな私のような娘や、大人になって人間関係がなぜかうまくいかないとか、自分に自信が持てないという自覚がある人には、まずこうした現場カウンセラー目線の事例がたくさん載っている本を読んでみてほしいと思います。私もこうした本を読むまでは、頑なに実家で起こっていたことは虐待ではないと思いたくて、「出来ない自分」を責め、同時に「私がダメだから仕方がない」と考えることによって目の前の解決すべき問題から目を背け続けてきました。例えば、「お前なんか産まなければよかった」と言われたり、母の意に沿わないことをして言葉や態度で責められたり無視されたり、私のが私らしくあることを制限されるようなことは、人に言うとどう考えても虐待だ、と言われます。それでも娘である私は虐待だと思いたくなかった。

しかし、それでは過去の親子関係は解消されないまま、未来あなたが作っていく新しい関係性さえも自分で潰してしまうことになり兼ねません。小さい頃に思った「なぜ、私だけが愛されないのか。なぜ、私だけが母を怒らせてしまうのか。」は「私が悪い。」になってあなたを襲ったことでしょう。しかし、こうした本を読むことによってそんな思いをしていたのはあなただけではなく、他の多くの娘たちが母親から同じような言葉を浴びせかけられ、泣き叫びながら手を挙げられ、自信を奪われて自分を責めてきたのだということがわかります。決してあなただけが悪くて母親を怒らせてきたのではありません。母娘のありふれた関係性として、娘を責め、怒り狂う母親とそれに耐えて自分を責めて自信をなくす娘という構図が浮かび上がってくるのです。あなた個人の問題にしてしまうと、解決するには大変なことのように思えてしまうかもしれませんが、他の同じような境遇の人たちがたくさんいるということがわかれば、心強いですし解決に向けて少し冷静に対処できるかもしれません。今回ご紹介する本は実録本の部類に入ります。著者の袰岩さんは埼玉大学の教授職に就きながら自らカウンセリングルームを持ち、20年以上カウンセリングを行ってきたカウンセラーでもあります。数百単位の親子関係の相談に乗ってきた著者の記す複数の事例がの中に、あなたが感じてきたこと、されてきたことに寄り添う話があれば幸いです。


程度の違いはあれどほぼ全てに当てはまる

この本を読むと、全部で9つのケースが紹介されています。実際に灰皿で娘を殴るなどのわかりやすい虐待のケースから、端から見ていると虐待とはわからないような、流行の「友達親子」のような格好をしている母娘のケースなど。程度の違いや表に出ている現象の違いなどはあれどカウンセリングの専門家から見て、それらは全て「問題のある母娘」のケースです。もし、起こっていることの如何にかかわらず娘の境遇に自分と重なる部分があったり、事例に紹介されている娘たちの心情に共感し涙することができるなら、あなたも同じように心に傷を受けている可能性があります。


josei-e1450853291367思い起こされた子供時代の記憶

私もこの本を読み、いつの間にか涙を流していました。事例に紹介されている娘たちの心情が痛いほどわかり、自らの子供時代の苦しさをありありと思い出したからです。私は大山家の長女として生まれました。3歳頃に両親は会社の社宅を出て千葉の田舎に一軒家を購入しました。その頃の記憶はほとんどありませんんが、幼稚園の友人や、その幼い妹と遊ぶうちに「妹がほしい」と両親に頼んだそうです。そして私が5歳の頃になって妹が生まれ、しばらくして母は専業主婦から内職へ、内職でも足りず工業団地の工場内の食堂勤めへと仕事を変えていきました。母が外で働くようになるにつれ、母から私への要求も強くなっていきました。最初は「筑波大学に入れ。」私が理系には向いていないことがわかると「国公立の法学部へ入れ。」両親をはじめ親戚一同、4年生大学まで行った人はいないのでひときわ学歴への憧れがあったのかもしれませんし、学歴もなく結婚で職を失った母は再就職の苦しみをパートを始める際に味わったのかもしれません。父は高卒で大企業のエンジニアとして勤めていますが、母は常に「うちは貧乏だ。」「父は家にお金を入れてくれないくせに外を遊び歩いている。」と恨み言を言っていました。「貧乏なせいで私が働かなくてはならず家のことも何もできなくて散らかっているから人を呼べない。」と言って、私が子供の頃は友人を家に招くことは一切許されませんでした。家が近い友人の家に遊びに行っては、友人の祖母から「子供たちがうるさい」と家に連絡が行き、帰ってくると叱られました。仕方なく家の外で遊んでいると、玄関から母が顔を出し、「○○ちゃん、そろそろ帰る時間よ!」と友人に声をかけ5分、10分おきに大きな音を出してドアを開け閉めされたりして、帰ってくると烈火のごとく怒られ、「こんなにママを怒らせて、心臓が悪くなった。あんたはママを怒らせて殺そうとしてるんだ。」と責められました。これにはものすごくショックを受けて必死で謝ったことを覚えています。それ以降度々、母は烈火のごとくの如く起こった後に「いたたたた・・・」と胸を押さえる仕草をするようになって、私は毎度「母を殺しかねないほど胸を痛ませている自分」を責めました。「産まなきゃよかった」と言われ、妹と比べて出来の悪い私に対して一挙手一投足なじられ責められ貶められて、何をするにも母の顔色を伺うようになり、母の気にいるように嘘をついたりごまかしたりして、いつかその嘘がバレるかもしれない。本当は悪い子な私にさらに失望されるかもしれないという恐怖を抱えながら子供時代を過ごしました。


受験にことごとく失敗し実家を出る

母の希望である「国公立の法学部」に入る前段階として、地域でいちばんの公立高校への受験に挑戦しました。机の前の壁に「合格しなければ死」と書いて受験勉強に臨みましたが、「お金がない」という理由で学習塾には通わせてもらえませんでした。もっぱら私の勉強の場は近所のそろばん塾で、学校が終わった後にこどもたちにそろばんを教えるアシスタントとして塾を手伝いに行き、その後の夜の時間を使って受験のための勉強をさせてもらいました。志望校A判定を取るまでにはなりましたが、受験は失敗。滑り止めの私立高校に行くことになり、母は発狂してブチ切れました。私立高校で、余計にお金がかかる上に、特待生になれなかったので交通費免除もなく、遠くの高校にバスで通うことになったことに、心底ガッカリしたようでそれからは私のことは諦めて、妹が水泳で成功するためのサポートをするように命じられました。妹はジュニアオリンピックに出るほどのバタフライの選手で、将来を期待されていました。私も高校に入ってからも生徒会に入ったりして母親の信頼を得ようとしましたが、評価されず、生徒会の仕事を早く切り上げて帰ってきて、妹の夜の練習のための弁当やプロテイン作り、家事などを行うことを求められました。それは私の大学受験のタイミングでも変わらず、同級生たちが予備校に通ったり学校がで放課後の受験対策補修があったとしても、真っ先に帰ってきて妹を練習に送り出すための用意と家の仕事と、自主的に勉強をすることの1つでも達成できていないと帰ってきた母親にヒステリックに叱られました。その生活が厳しくて、やりたいことも受験の勉強も満足にできないと涙ながらに担任教師に訴えたこともありましたが、「家庭の問題だから」と相手にしてもらえず、全てに絶望してここでようやく「家を出よう」と計画をし始めました。親には秘密で、第一志望以外を全て家から通えない距離の大学を受験しました。母の期待に応えられないのであれば、徹底的に期待を裏切っていけばダメな娘だと諦めて解放してくれないかという希望を持ったのです。結果的にそれは成功しました。センター試験はボロボロで、第一志望は落ちました。受かった大学は2県をまたぐ位置にあり、毎日実家から通うのは無理な距離でした。母は最後まで「余計に金がかかるから一人暮らしなんて絶対に許さない」と主張していましたが、普段家にいなかった父がこの時ばかりは応援してくれて部屋も一緒に探しに行き、その場で一人暮らしのマンションを決め、送り出してくれました。父は家にいると母に詰られるので家に寄り付かず私がどんなに母に責められていても口を出さずにいつの間にか家からいなくなっているような人間なので、なぜ助けてくれないのかと心の中で責めていた部分もありましたが、この時ばかりは感謝しました。


ストレスのはけ口は妹へ

私が実家から離れて解放され、悠々自適の一人暮らしをしている間に、ストレスのはけ口と家事をやる人間を失った実家では、母から妹への当たりが強くなっていきました。私がことごとく母の期待を裏切ったこともあり、母の期待を妹が一身に背負っていくことになったのです。高校受験とオリンピック選手への選考を控えた妹は、自己タイムの更新と水泳の実績によっていい高校に推薦で入ることを母から求められていました。毎日毎日、働く母が私の代わりに妹の弁当を作り練習に送り出す際、自らの大変さと期待を妹に押し付け、次第に妹はプレッシャーに耐えられず水泳の練習で毎日鼻血を出すようになります。鼻血を出していては練習ができないので、サイドベンチに座らされ、他の選手候補たちが練習をしているのを、鼻を押さえながら眺める日々が続き、それに対してまた母の怒りが爆発しました。そして妹は限界を訴えて「水泳を辞めたい」と言い出します。水泳を辞めてしまっては、オリンピック選手へのへの道も、推薦で高校に入ることも叶わなくなってしまいます。ここでまた母が発狂しました。家を離れている私に久しぶりにメールをしてきたかと思えば「ずっといい子だった妹が、おかしくなってしまった!全く言うことを聞かない!!思えばあんたの方が素直に言うことを聞いていた。こんなことは初めてだ!妹に裏切られた!」という恨みのメールです。その直後に母は妹を精神科に引っ張っていきました。精神科と私の意見は一致し「妹の好きにさせてあげましょう」というものでした。その結果、妹は水泳を辞め、勉強もも辞めて、高校見学会に行って一番雰囲気が良さそうな、偏差値の高くない高校に入りました。こうして娘たちは両方、母の願いを叶えることなく大人になりました。


大人になっても出てくる歪み

子供時代、母の期待に答えられず怒りをぶつけられ育った子供たちは、大人になってもどこかしら歪みを持っています。私でいうと、自分に自信を持てなかったり、妹でいうと他人を信じられず疑う心が強いという点です。これらの過去の清算をしないまま、大人になったからと本音に蓋をして仲のいい家族を演じても、解決できません。前述した通り、子供の生活を握っている、一番頼るべき親から攻撃を受け続けると、親の気にいるような子供になれない自分が悪いのだと自分を責めてしまいがちです。そのせいで、大人になっても「親が悪い」とは思えず親のその時置かれた状況に理解を示そうとしたり、同情したりして問題から目をそらし、弱くなっていく親を助けてあげなければと思ってしまうのです。

私がこのように過去の虐待について文字にするのも、同じような体験をした人に「あれは客観的に見ても虐待だった」と実感を持ってほしいからです。自分に起きたことを自分のせいだとして自らの未来をも過去の親に潰されてしまうような悲しい娘を助けたいと思っています。一人一人がしてきた体験は、個々人のものであるのと同時に、同じような体験をしてきた母娘たちの共有できる「何か」はあるはずです。それに触れていくことによって、ありふれた母娘の問題として冷静にこれからの人生に立ち向かっていけるように願っています。
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大山 莉加Rika Ooyama

ビ・ハイア

ビ・ハイア株式会2010年に正式入社。 千葉県茂原市出身。昭和62年11月19日生まれ。 専修大学文学部2010年卒業。

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