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2019.11.28 THU - 読書ブログ

前向き思考では乗り越えられない試練の乗り越え方。生きるための哲学を読んで。見せかけの前向き思考を諦めて見えてくるエネルギー。



前向き思考では乗り越えられない試練の乗り越え方。生きるための哲学を読んで。

人は様々な試練や困難に遭遇します。それらの試練は前向きに乗り越えられるものもありますし、乗り越えられないものもあります。むしろ、前向きに乗り越えようとすると余計に事態が悪化してしまう試練もあります。

そして人が本当に苦しむのは前向きな思考では乗り越えれない試練です。多くの人は全ての試練に対して前向きに努力すれば乗り越えられると信じています。特に頑張り屋さんの人であればあるほどこの傾向が強くなります。

前向きに乗り越えようとしていい試練と、前向きに乗り越えようとするとすればするほど事態が悪化する、自分を苦しめる試練があります。これの見極めが重要です。私は「目標を設定し、明るい方向を見ればその目標に到達する」ということを言っていましたが、どうやら前向きに乗り越えようとしないほうがいいものもあると最近は思うようになりました。

結論から言うと前向きに乗り越えていい試練というのは「自分が心から納得している目標に対して生じる試練」です。前向きに乗り越えてはいけない試練は「自分が納得してない目標に対して生じる試練」です。

例えば、自分が今健康で仕事をしているとします。そしてその仕事で成功して年収を2倍にしたいと考えていたとしましょう。この場合は前向きに乗り越えようとしていい試練の可能性が高いです。

しかし、そもそもその仕事を選んだのが自分の判断ではなかったとしたらどうでしょうか。本当は他の仕事に就きたかったのに、親の都合、家族の都合、さまざまなしがらみでそこを選ばざるをえなくてその仕事に就いていたとします。これでは人は前向きになる事はできません。

もっと言えば、私の様に3歳で父親に捨てられたという人もいるでしょう。これは私の責任でしょうか。これを私の責任だとか、前世からの因果であるという人達もいますが私はそういう宗教は信じていないので私の世界観では子供に責任があったから親に捨てられたのだ、という風には納得しません。100%これは私の責任ではありません。

親に捨てられた、生まれつき障害を持っている、その人の責任ではないことでその人に訪れている試練は沢山あります。親に捨てらなくても、私の様に中学校の時に学校の先生にいじめられる人もいるかもしれません。それも子供のせいでしょうか。明らかに違います。

人は様々な試練に遭遇します。こういう自分の責任で起きたことではない試練に対して前向きに望んだらどうなるでしょうか。

父親には捨てられたけど捨てられたのは自分の責任だから問題を解決して父親の愛を取り戻そう!と思ったら?

先生にはいじめられているけど頑張っていじめられた責任は自分にあるからいい子になって挽回しよう!と思ったら?

おそらくその子供は一時的には頑張れるかもしれませんが倒れてしまうでしょう。なぜなら父親に捨てられた責任は子供にないので、その責任を引き受けて解決する事は出来ないからです。

私の子供時代を例にしなくても、先ほどのように「仕事を自分で選んだわけではない」という人はどうすればいいのでしょうか。それでも

さあ!仕事頑張るぞ!

と前向きに乗り越えようとすれば、本質的に自分がこの仕事をやりたくないのに、という想いに引き裂かれてとても前向きな気持ちを維持することは出来ないでしょう。極論を言えば「最後の最後に選んだのはお前だ」と言ういう事になります。でもそれで納得出来ないのが人間の心の幸せです。

ここで、「最後の最後に選んだのはお前だ」だからあなたはあなたの責任を受け入れて自己責任で変えて行きなさい、と言う事も出来るかもしれません。ただし、それは人間の心の不思議さを無視してるので幸せには繋がりにくいでしょう。(繋がりにくいだけでそれで受け入れられる人もいるかもしれませんが少ないでしょう)

前向きに乗り越えていい試練というのは「自分が心から納得している目標に対して生じる試練」、と最初に書きましたがそうでは無い試練を「心から納得してる目標なんだ」と思い込もうとして七転八倒してる人が本当に多いです。

例えば家族のために20年働き続けて、自分のお小遣いもほどほどにしてずっと子供と配偶者のために頑張った人がいるとします。その人が頑張っただけど仕事で失敗して家庭に入れられるお金が減ったとします。そしたらその人は家族から「お前は仕事ができない人間だ」と否定されたらどうでしょうか。

一生懸命稼いだ人が前向きに解決しようとすると

自分が家族とのコミュニケーションをとってなかったからだ!これからはとろう!
自分が仕事が上手く行ってないのは自分の責任だ!これからはもっと働くぞ!

と思うでしょう。おそらくこの人はその内倒れてしまいます。なぜなら、20年も一緒にいてその人の頑張りを感じられなかったのなら、その家族はそもそもその人の頑張りを認めるつもりがない人なのです。

これはたまたま働いた親が主役になりましたが、子供だって別のパターンになり得ます。一生懸命頑張っても親に全く認められず、褒められもせず、生活費もあまりいれてもらえなかった子供がいるとします。この子供が「親に認められないこと」を試練とした場合、この試練を前向きに乗り越えようとすると

もっと親に自分の努力をアピールしよう!

なのでしょうか。絶対に違うでしょう。もともと親が受け入れる気が全く無いのに子供がそれを前向きに克服しようとしても、どうにもなりません。前向きに考えるだけでは、努力しても報われず絶望します。

自分の責任ではない試練に向き合って、それを乗り越えられた人達もいます。そういう人達を見ていると共通するのは前向き思考を捨てて「諦める」事でした。格好良く言うと「運命を受容する」ことです。

この試練を絶対に乗り越える、という強い意志では無くまずは敗北することです。これはどうしようもならない。自分ではなんともできない。と足掻いていたことをやめて受容することです。多くの人は足掻くのをやめるともっと事態が悪化すると恐怖しているのですが、実際足掻くのをやめてもそこまで事態は悪化しません。溺れる人間が足掻くからこそ溺れるように、人間はもともと力を抜いてリラックスしてると浮き上がるものなのです。

私は中学生の頃海で溺れかけました。遠泳をして深さ30メートルはあろう海の上で泳いでいたら突然足がつったのです。一瞬で私はパニックになりました。しかもその時私は水中眼鏡をつけていたので、光が届かない海の底が見えたのです。恐怖に包まれて

死ぬ!

と思いました。岸からは100〜200メートル離れていたので誰も助けに来れません。私が溺れたことにすら気付かないでしょう。海の中で孤独と恐怖に包まれました。

子どもの頃の私がその時思ったのは理科の授業でした。人間の身体には浮力があり、ほっといたら浮かぶものだ。という知識です。それを思い出して私は足掻くのをやめました。そしたら徐々に浮かんできました。水中眼鏡越しに海底が見えて魚が泳いでいるのが見えます。恐怖を感じましたがゆったりしていると浮かび、酸素を吸ってゆっくり岸に戻っていきました。あの時、私が足掻いていたら今、ここで文章は書いていません。新聞の小さな海難事故のニュースとして載ったか載らないかです。

この溺れたのは私の責任でしょうか。大人達が見張ってなかったからでしょうか。少なくとも100%私の責任とは言えないでしょう。この話は足掻くのをやめる、一端受容すると意外と事態は悪化しない、という例え話として書きました。前向きに無理矢理乗り越えようとするのは「足が動かないなんてけしからん!動け!動く!」と足掻くようなものです。

前向きに乗り越えようとしてもどうしても乗り越えられない。前向きな気持ちが挫けてしまう、という人は前向きに足掻くことをやめましょう。一旦、あるがままの状況を受け入れてみてください。

親に捨てられた
人に裏切られた
先生にいじめられた
望まぬ就職(結婚、転職、進学)をした

と言う人はまず、無理矢理前向きにそれを乗り越えるのでは無く受け入れてみる。そうすると不思議な事に「その状況を変えよう」という新しい視点が見えてきます。

前向きに乗り越えようと足掻いている人はこの視点が見えてきません。エネルギーも枯渇してしまいがちです。目の前の試練によって訪れる様々な困難に最終的に心が折れてしまいます。足掻いている人は「これが足らないから乗り越えよう!」「ここが問題だから乗り越えよう!」とそればかり見ています。それは一見すると前向きなのですが、結局マイナスばかり目が付いているのでエネルギーが枯渇してしまうのです。

状況を受け入れてみると「マイナスでは無く今のプラス」が見えてきます。それに対して自然と感謝の気持ちも湧いてきます。この感謝の気持ちを持つと出口の見えない試練に対しても「辛い、でも頑張ろう」だけではなく、一旦立ち止まって「でも、ここは幸せだよな」とささやかなことでも幸せを感じる事が出来るようになります。

感謝の気持ちやプラスを見る事は心のエネルギーを補給する行為です。多くの人は試練を乗り越えたら、目標を達成したら心が満たされると思いがちですが、試練を乗り越える最中、目標を達成しようとする最中は常にエネルギーを使ってる状況なので、こうしたエネルギーの補給が無いと動けなくなってしまいます。

前向きに乗り越えようとし続けて最終的に心が枯渇してしまうと不幸を他人の責任になすりつけ、周りを攻撃し始めます。そうするとその人は余計に不幸になります。不満ばかりになって余計に生きづらくなるのです。

例えば、私が父親に捨てられても生きて来れたのは「父親に捨てられた」というどうしようもない絶望を受け入れたからです。それをなんとなく受け入れたのは11歳の頃でした。3歳の時に捨てられて8年かかりました。それまでの8年間、私は前向きに頑張れば父親が戻ってくると言う希望を持っていました。

父親に捨てられたという問題、試練を解決しようと一生懸命頑張っていました。幼稚園でも小学校でもいい点数を取り、いいお兄ちゃんであり、大人の空気を察する子供でした。太りすぎてると嫌われると思っていたので、今の私しか知らない人はビックリすると思いますが、身体の線も細く、やせっぽちで食も細かったです。(なお、今の私は183センチあって、1番太っていた高校時代は100キロあります!)

「父親に捨てられた」

という事実を私が受け入れたときに私は泣き叫んだそうです。実際はあまりにも辛くて覚えていません。あとから人から聞きました。しかし、父親が帰ってくる、こない、ということを自分ではどうしようも無いと言う事を受け入れたらだんだん私は自由になって行きました。

学校にはいかなくなりました。太っていたら嫌われると思っていたのでやせっぽちでしたが、モリモリ食べるようになりました。身長も1年で5センチ、10センチと伸びました。学校には行きませんでしたが自分で勉強を自由にしていたのでテストの点数だけでは良かったです。学校に行かなくなって余った時間を膨大に使って新聞配達のバイトをして、今まで我慢していた趣味にお金を使いまくりました。

状況を変えられないという絶望を受け入れた結果、私は私が設定した目標の呪縛から解き放たれて別の視点でも幸せになれる、と動けるようになったのです。



・私を動かしたのは前向きな希望だけでは無く絶望と諦めもあった。
他にも私が自分で就職を決めた最初の企業でも明らかに私の責任ではない試練が待っていました。その会社は私が入る前に既に数千万の赤字を計上していました。小さな5人程度の会社です。そんな会社だったので私が入社して数ヶ月で私以外の社員は全て退職しました。更には社長から「お金が足らないから銀行の連帯保証人になってほしい」と言われました。

これは私の責任ですか。どう考えても違いますよね(笑)私は何でこんな貧乏な会社に入ったのだろうと悩んだこともありましたが、もうこれもまた運命だと受け入れて頑張りました。実際はここに書いた以上に理不尽な困難がありましたが、これも仕方ない、何かの学びだろう、と受容していたら何故か乗り越えられました。4年で借金も赤字も全て返して数千万の黒字を計上出来るようになりました。

もし、私が状況を受け入れずにとにかく頑張ろう!と思っていたらどこかに不満がうまれて続かなかったでしょう。頑張ろうと思ったのは事実ですが、頑張り続けられた、乗り越えられたのはどこかで

「私の責任でこんなにしんどいんじゃないし、仕方ねえよ」

という諦観があったのです。諦めや受容も無く突き進んでいたらどこかで倒れていたでしょう。

私が様々な試練や困難を乗り越え続けてこれたのは、前向きなパワーを持っているだけでは無く

「私のせいじゃない。どうしようもないし」

という諦めも同時に持っていたからだ、という事を最近思い出しました。

ただし、これを外から見ていると「清水さんはどんな時でも前向きに頑張り続けるパワーを持っている」という風に見えます。私ですら忘れていたのでそういう誤解が生まれても仕方ありません。

しかし、実態はそうではなくて

「前向きに乗り越えようとするのと同時に、どうしようも無いものは諦めていた」

のです。やるぞ!という前向きな考えと同時に、どうしようもないじゃん、でも幸せなこともあるよね、と思うバランスの上に私は成り立っていたのです。

父親に捨てられたという事実があり、それに対して8年間足掻いたけどどうしようも無かったという絶望。それが私の原点なのかもしれません。

前向きに乗り越えようとしていい試練と、前向きに乗り越えようとするとすればするほど事態が悪化する、自分を苦しめる試練があります。これの見極めが重要です。

結論から言うと前向きに乗り越えていい試練というのは「自分が心から納得している目標に対して生じる試練」です。

と私は最初に書きましたが、そうなると今度は

前向きに考えていい試練とそうじゃない試練の見極めの仕方

に興味が行くと思います。

見極め方は簡単です。逆説的なのですが「前向きに乗り越える気持ちが継続しない状態」になる試練は自分が心から納得してる目標から来る試練ではないのです。

前向きになろうとする人はこれが納得がいかないのです。

「これを自分が納得した目標だと思わなければならない」

というHave to思考に包まれています。それを覆い隠すために

「これは私がやりたいことだ」

とWant toなんだと納得しようとしています。いくら隠そうとしても前向きな気持ちが続かない時点であなたの魂は気付いています。

例えば、貧乏な人が金持ちになろうと決意した。しかしその気持ちが継続しない、そういう人は「心から自分がそうなりたい。だから自分がこの目標を設定した。そのための試練を受け入れる」と思えていません。金持ちになる、でもモテる、でも勉強する、でもなんでもいいです。

・不自由の中の自由しかないと受け入れる
ここで、私は自分で心から目標を100%自己責任で決意することが出来ない人間だ、と落ち込む人がいます。

しかし、ちょっと待って下さい。そもそも「100%自分の責任で起きたこと」「100%自分が心から自由に設定出来る目標」なんて存在するのでしょうか。おそらくそれは存在しません。

例えば

あなたはこの時代にうまれてきましたがそれはあなたの責任でしょうか。
あなたは男性か女性にうまれてきましたがそれはあなたの責任でしょうか。
あなたの背の高さはあなたの責任でしょうか。
あなたの顔の形はあなたの責任でしょうか。
あなたが子どもの頃に親に愛情をかけられなかったらそれはあなたの責任でしょうか。
あなたが就活をしたときにリーマンショックのようなことが来て就職氷河期になったのはあなたの責任でしょうか。

他にも色々あります。私は最近遺伝子検査をしましたが、私はどうやら二日酔いになりやすい遺伝子を持っているそうです。これは私の責任でしょうか。親の収入と学歴で子供の学力がかなり影響されるそうですが、あなたが勉強出来ないのはそもそもあなた勉強不足ではないかもしれません。

このようにそもそも私達の人生は

「100%自由に出来るものなどなく不自由なものばかり」

だということに気付かされます。少なくとも、この時代にこの国に生まれたことは

「しかたない」

と諦めて受け入れる必要があります。

自分の人生は自分の責任ではなんともしがたい不自由なものだということです。あまりにも夢がない(笑)



・見せかけのプラスを諦めると見えてくるプラス
しかし、人生の様々な不自由を諦めて受け入れていけば行くほど「でも、これはできるよな」「でも、これは幸せだよな」というプラスが見えて不自由な中で自分の幸せを追求していくエネルギーが湧いてきます。

逆に、人生に不自由などない!全て自由に出来る!と思うと「あれも不自由」「これも不自由」「これも出来てない」「これも自由に出来ない」という現実を無意識で無理矢理前向き思考で塗りつぶすことになるので心のエネルギーが枯渇して余計に不自由になり、不幸になってしまいます。

100%自己責任できる事がある、という幻想から解き放たれることにより、この不自由な世界で自分で決定出来る自由を見つける事が出来るのです。

不自由を受け入れつつ、でもここは幸せだし、感謝だよな、よし、頑張ろう。と思える人とそうではない人の違いは何でしょうか。これは自分という存在の有限性を受け入れるかどうか、ということにかかってきます。不自由を受け入れられない人は自分が限りある、不完全な存在だという事自体が認められないのです。それを認められるかどうかが違いになります。

自分の不完全性、限界を受け入れられない人というのは噛み砕いて言えば

だって人間だもの。しかたないよね。

と自分にも他人にもいえない人です。色んな試練に直面したときに、あらゆる不利なこと、不満なこと、不幸なことがあっても、今こうして生きてる、存在してるという事自体に意味を見出します。それは自分が直面してる試練に比べるとあまりにもささやかなことかもしれません。単純なプラスマイナスで言えば短期的に見るとマイナスがデカいかもしれません。それでもプラスの部分を感じられると心にエネルギーがたまるのです。

自分の不完全性を受け入れられないと、自分の思い通りにならないことの全てが自分を攻撃する何かになります。それを跳ね返そうとすると過度な前向き思考か不平不満に満ちる人生となります。いずれにせよ不健康ですし、過度な前向き思考はいつかエネルギー切れを起こすでしょう。

自分の不完全性、限界を受け入れられない人は限りある自分自体が腹立たしいのです。どんなことも成し遂げられる自分が理想なのです。

不自由な人生を歩んでいればいるほど「人生は思い通りになる!」という考えに惹かれてしまいます。ただし、残念ながら全てを思い通りにするのは不可能です。不可能ととっくみあいをし続けるから苦しいし、試練を乗り越えるエネルギーもすぐに枯渇するのです。

自分の人生は不自由なもので、自分は不完全なものだ、という風に受け入れる。それを認める事がネガティブなことで自分の人生にとってマイナスである考え自体をひっくり返すのです。

そうすると人は不思議なものでネガティブでマイナスだったことの中からプラスを見出します。

それを簡単に言うと「どんな時でも感謝を忘れない」「どんな時でもプラスの側面を見る」という事になります。

私自身も子どもの頃の絶望から、大人になってからの絶望まで、絶望と試練のオンパレードでした。その中で私は

「前向きに乗り越えようと決意していたから乗り越えられたのだ」

と思っていましたが、どうやらそれは半分だけの真実で、もう一つは

「自分が変えようがないことは変えられないし仕方ない」

と受け入れてきたからこそ乗り越えられた、という事でした。

希望と絶望のブレンド、前向きと諦めのバランスのようなものです。

ただ、この結論が先に来すぎるとこの考え方は

「どんな時でも人生は思い通りになる!」

という考えが人を縛るように

「どんな不幸な時でも感謝しなさい」

という人を縛る義務になってしまいます。

良い子、頑張り屋さんであればあるほど、強いられた感謝はその人を不自由にしてその人の人生をさらに不幸にするものになってしまいます。この考え方は結局その人それぞれが試練に向き合いながら1つ1つ考えて行く中で到達していくものなのだと思います。

私は常に人が幸せになるにはどうしたらいいか、ということを考えて文章を書いたり動画を配信してきました。人が何によって不自由なのか、そして足掻いているのか、それは人が100人いたら100通り違うものです。それを何か1つの考え方で塗りつぶして乗り越えようとすること自体が傲慢な考え方です。だからこそ私はこれからも自分が苦しみから得た気づき、上手く行った時の気づきなどを描き続け、配信していきたいと思います。

最後に、この文章を書こうかなと思ったきっかけとなった本を紹介したいと思います。

それは岡田尊司さんの「生きるための哲学」と言う本です。この本の序文の一部だけでも良かったら読んでみてください。

以下引用
はじめに生きづらさを抱えた人に

困難な時代状況の中で、今、生きづらさを抱えている人が、とても増えている。思うがまま、感じるがままに生き、迷うことなく日々の営みに熱中できれば、それに勝ることはないが、そんなふうに生きられない人も多い。

普段は元気な人も、壁にぶつかったとき、理不尽な仕打ちを受けたとき、自分の努力ではどうにもならない事態に出会ったとき、苦しさにさいなまれる。自分を認めてもらえず、逆に不当な扱いを受けて傷ついている人もいるだろう。この生活になんの意味があるのかと、それに耐えることに疲れ切っている人もいるだろう。

頑張っても頑張っても希望が見えず、気持ちが折れそうになっている人もいるだろう。もっと根深い問題を引きずっている人も少なくない。自分が何者かわからず、生きることに、つねに迷いや違和感を抱え、本当はどうすればいいのか、どうしたいのかと揺らぎ続けている人もいるだろう。自分に自信がもてず、いわれのない罪悪感や不安にさいなまれている人もいるだろう。本来なら一番大切な存在であるはずの親や子との関係で、わだかまりを抱えている人もいるだろう。恵まれた人生を送っているはずなのに、生きることに空しさや無意味さがつきまとう人もいるに違いない。それら苦悩の根底には、人が生きるということの根本に関わる問題がからんでいる。

悩みと無縁に生きてきたような人でさえ、人生のある時期には、自分の心の問いに対する答えを探し求めようと、七転八倒するときがある。信頼していたパートナーとの関係が行き詰まったり、人生の岐路に立って、どちらに進むべきか、迷って答えを出しあぐねたりする。そうしたとき、人は、科学や理屈では答えが出ない問題、つまり答えのない問いに向き合っている。数学の問題であれば、「解なし」というのが正解であったりするが、人生の問題では、それではすまされない。答えが出ないからといって、答えを出さないわけにはいかないのが人生である。前に進もうと思えば、自分なりの選択と決断をするしかない。

自分が直面している事態を、どう受け止めればよいのか、どう考えて選択を行えばいいのか。自分に降りかかっているものは一体何なのか。なんの意味があるのか。この苦しさをどうすれば乗り越えていけるのか。どう受け止め、どう考えれば、この困難でつらい状況に押しつぶされずに、生き抜いていくことができるのか。

人がそう感じ、苦しみ、悩むとき、人は正解のない問題に、自分なりの答えを出そうとしている。正解のない問いを問うこと、それこそが哲学するという営みであり、まさに万物の霊長たる人間だけが示す特性である。ただし、そこで求められているのは、哲学するために哲学する、学問としての哲学ではない。もっと切実に、ぎりぎりの生存を支えるために、生きるための哲学が求められているのである。人は、パンや水を求めるのと同じように、誰であれ、生きるための哲学を必要とするのだ。哲学などと無縁に生きている人も、生きるための哲学をもっている。

後略
引用終わり 生きるための哲学 岡田尊司さん



私はこの本を読んで色々と考えました。どんな本でも読んだら考えるものがあるのですが、今回はこの序文で言えばここが響きました。
悩みと無縁に生きてきたような人でさえ、人生のある時期には、自分の心の問いに対する答えを探し求めようと、七転八倒するときがある。信頼していたパートナーとの関係が行き詰まったり、人生の岐路に立って、どちらに進むべきか、迷って答えを出しあぐねたりする。そうしたとき、人は、科学や理屈では答えが出ない問題、つまり答えのない問いに向き合っている。数学の問題であれば、「解なし」というのが正解であったりするが、人生の問題では、それではすまされない。答えが出ないからといって、答えを出さないわけにはいかないのが人生である。前に進もうと思えば、自分なりの選択と決断をするしかない。
この文章の特に
「数学の問題であれば、「解なし」というのが正解であったりするが、人生の問題では、それではすまされない。答えが出ないからといって、答えを出さないわけにはいかないのが人生である。前に進もうと思えば、自分なりの選択と決断をするしかない。」
この部分です。私は今思えば悩み多き人生を歩んでいましたが、結局自分なりの選択と決断をし続けるしかないのです。そこには科学や理屈に頼ってもでないものに頼って生きて行くしかないのです。その自分をどう信じられるか。自分の決断を自分にどう認めてあげられるのか。それを悩み、考える事こそ答えのない人生で生きて行くための指針だなと思ったのです。

いい本なのでよかったら読んでみてくださいな。

そして、ここまで長いブログを読んでくださった皆さんに幸あれ!今日も読書。

他にいいな〜と思った文章
「哲学は厳密さにこだわる余り、自らの口に猿ぐつわを噛ませてしまった。科学のように論理的であろうとするがゆえに、答えの定かでない問題について語ることを、自らに封じてしまったのだ。だが、いま苦悩し、死ぬか生きるかの問題に直面している人にとって、論理的に無意味なので、何を言っても仕方がないというのではすまされない。」

「正確さや整合性にこだわって沈黙することは、間違いを犯さないという点では安全策かもしれないが、現実の人生においては臆病すぎる。責任逃れにすら見える。一片の言葉に、些細な考え方に、救いと光明を見出そうとする人間の営み、それに曖昧であろうとも答えようとする必死の努力にこそ、人間の人間たる真実があるように思う。答えの出ない問いを問うこと、そして、無意味さの中にも、なにがしかの意味を汲み取ろうとすることは、人間のやむなき衝動であり、生きるために不可欠な魂のわざなのである。」
あー疲れた〜
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清水 有高Yukou Shimizu

ビ・ハイア株式会社 代表取締役

一月万冊 清水有高(しみずゆうこう)滋賀県出身。元不登校児、母子家庭育ち。ビ・ハイア株式会社代表取締役。滋賀県立大学人間文化学部卒業。ベンチャー役員、上場企業役員などを経験しコーチ、投資家、経営者として活動中。東京大学を始め各種大学でも講演多数。コーチングと読書を経営に活かし営業利益1億円以上、自己資本比率70%の会社を経営。8年間でスタッフ1人あたりの営業利益を100倍以上にする。

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